適応障害は知られていますか | 社会保障を考える

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適応障害は聞くことが増えたと思いますが、実態は知られていません。知らなくても思いやりがあれば救われるかもしれませんね。新聞の投稿欄からです。

 

「(声)適応障害で苦しむ人に声かけて  38歳 2016105日朝日新聞

 

 「適応障害 復職時は別の職場に」(9月23日)を読みました。私自身も8年ほど前、職場のストレスによる心因性の嘔吐(おうと)や発熱などに苦しみました。そのパート先では「本人の甘え」と突き放されました。自分で自分を責め、心を閉ざしました。昨年まで働いたパート先でも周囲の理解を得られず、退職せざるを得ませんでした。

 短大卒業後、正社員や派遣社員、パートとして様々な職場で働きました。適応障害について理解を得られない職場ばかりではありません。「何かあったら声をかけてね」と気にかけてくれる上司がいた職場では契約期間満了まで楽しく働くことができました。その上司からは自分さえ良ければ良いという気持ちは捨て、相手を思いやることの大切さを学びました。

 心を閉ざし、暗闇から抜けようとした経験者からのお願いです。周囲に苦しんでいる人がいたら、声をかけてあげてください。あいさつや何げない会話で十分です。自然と心を開き、笑顔が見られるまで、時間がかかります。気長に温かく見守り、そっと寄り添ってください。」

 

次は戦争体験記からです。

 

「セピアの106人、 死賭した青春   69

 

セピア色の写真に父と共に写っている106人の兵士たち。昭和1412月、熊本の師団に現役兵として入隊した時のものです。20歳の若い父がいる。この幾人が生還しただろうか。その父も6年前に91 で旅立ちました。 昭和152月に中国太陸に渡った。35カ月戦い、 同年9月に除隊。出征の折、生後6カ月だった長女と母とのつかの間の暮らし。が、敗戦の色濃い204月に熊本の師団ヘ再召集。今回はさすがに生きて帰れないと思ったそうです。沖縄の要員でしたから。 しかし、沖縄への輸送手段も既になく、815日に 終戦。913日に帰郷した。生前、父は戦争について多くを語りませんでした。 最も輝いでいた青春を、死を賭して過ごした父。一体、何を思っていたのでしょうか。戦争は、人が殺し殺されるただ、それだけのこと。そんな言葉が今も胸に残ります。

父の「終戦」は平成22316日、旅立った日に違いありません。」(201685日西日本新聞)