今思う。{自分は何者であったのか}・・・・・悲しく辛い問いである。
<↓数年前に書いた日記(傲慢で浅はかで不誠実な自分の文である>
やっぱり事態が突破できないのは、あれとそれとこれだ。
いずれも自分の成した流れなのだ、耐えるしかない。
努力はそれなりにした。
その上での困難事態だ。もお、いい。こんな時こそ天の示しのままに、だ。
クリスチャンの私は、加須教会で浅木仰二師に教えを乞うた短い時間がある。
本当に短い時間だったし、顛末は残酷なものであった。
それもまた自分の成した流れであった。
その残酷さは辛いものであったが、でも、私は、浅木牧師のいくつかの言葉に救われそれをよすがにして生きてきた。
ひとつはこんな言葉だ。
人間関係に自分では誠意を尽くしているつもりでありながらいつも排他の孤独に苦しむ私にこう言われた。
「必ず真実はわかるもんなんだよ。必ず」
ああ、あの言葉を言って下さった時の浅木牧師のまるで干し草のような笑顔だったことよ。
私はその日を夢見続けてきた。
真実がわかる日。私のしたこともしなかったことも。言ったことも言わなかったことも。もう、決して私の何をもわかろうとはしない人に、必死で胸も心も魂も開こうとすることはないその日を。
開くことに疲れ切ったそれらに柔らかな毛布をかけて、あとは静かに待とう。
私はこうして神に救われ続けてきた。
生きることは なかなか なかなか このように俗なことよ。(笑) 家族のことも現在の現実のことも自分の内なる全ても。(笑) 求めるものも捨てたいものも なかなか なかなか。
※2021年の現在、私は小山市のある教会で、日曜日ごとにインターネットで礼拝を受けている。そのことを大変ありがたく嬉しく思っている。