植え木 | なぜぼくらはおいていかれたの 

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地球はみんなの星 猫も犬も大きな動物も小さな生き物も人間も 心に感じる思いをまげず ゆうゆうとのうのうと生きる星 

今は完全なる猫の家犬の庭になっているもともとの我が家の庭。

引っ越してきた22年前になるかな、とにかく昔に植えたクリスマスのモミの木、タロウぐみの木、カリンの木、金木犀の木、イチヂクの木がどれも二階の屋根を越える大きさになって、すっぽり猫たちと犬たちの家を覆っている。
そして! いつの間にか庭の隅に生えていた野生の木が、それらをなお越えて、まさに天上で葉を広げたごとく、我が家を隠さんばかりに茂っている。

ずうううううううううううっとこの木をなんとかせねばと気になっていた。

我が家の隣は墓地で、この墓地が気に入って、ここを脳梗塞で社会の一線から退いた夫と、当時十数匹の犬と20数匹の猫と暮らす家として入ったのだった。墓地が隣接しているということは、人や子供たちが常に通らないから、犬が騒がなくていいと思ってのことだった。

家を覆うような木を植えたのは、猫や犬がいっぱいだとできるだけ気付かれたくなかったからだった。気付かれたら捨てに来る人はますますあとをたたなくなるだろう、樹木が隠してくれたら救われるかも、と友人の言では浮世離れ極まる必死の願いであったが。

その樹木、伸び放題になって家は隠してくれたが、猫立ちや犬たちが捨てに来られないようにしてくれる神力はなく、それどころか、落葉の時期には我が家だけでなく、墓地にも近隣のお宅にも茶色い色づいた葉を降り注ぐのである。
この時期、懸命にひとりで清掃を心がけ、常に竹ぼうきかついで掌に豆をつけていた。

『早く切らなきゃ、切らなきゃ、切らなきゃ・・・』と思ってるうちに夫は他界し、後に震災と原発事故、そして警戒区域にどうぶつたちが置き去りにされそこに通うようになり、そしてそして、ともに暮らしたことが殆どない継母と同居して介護するという現在に至った。

で、先ほどのことである。

二人の男性の来訪があった。
我が家の木の葉の埋もった墓地に大切なご先祖、先に逝かれたご家族を守っておられる方であった。
「あのう、お宅の木を・・・・・・・・」
お二人は大変篤実な姿勢でお話し下さった。

「勿論です! すぐに伐採の手配を致します! 本当に申し訳ありません!」

本当は怒りをぶつけられても仕方のない事態にしているこちらである。なのにお二人はあくまで誠実に穏やかに、そして私への経済の負担を少しでも減らそうとのお気遣いであろう、自分たちでやりますから、志だけいただけばいい、と言って下さったのである。

お二人が帰られてから、その立派なお人柄と温かさに感謝で思わず涙した。


実は最近の私は、日常の中の人間に対してひどく虚無的になっていた。

継母と暮らすほうの今家、雨漏りがひどく茫然とするばかりになっていたのである。
入った時も雨漏りで天井を張り替えなくてはならない個所があったし、入ってわかったトイレの不備などもあったし、大晦日に水が流れないほど詰まってもいたし、とにかくもろもろ、普通の生活ができるようにするのに百万円を越える出費となり、亡き実母の大事な形見を手放すなど世間知らずの私にはとてもとても重荷のここ数カ月であったのだ。
そして、この家にかかる固定資産税と火災保険費用も払わねばならない流れになって、継母に心配かけられないので??????なまま払ったところである。
貸家業をされている知人に、「甘く見られたのよ」と言われてなお????であった。
確かにばかにされている。それがなぜなのか私にはわからんのだ。

貧しいよそ者がなお貧しいよそ者の年寄りをかかえて生きるには日本の土壌は拓けていない。こちらの常識からすると理不尽でしかないことが”普通”に大手をふるうのだ。
・・・・・・と、いささかつっぱり気味で疲れきっていたのだったが、今日の来客の礼節に「昨日までのことは霧が晴れたようになった。雨漏りの修理はそのうちに延ばして、できるだけの誠意でお返ししたい」と思うようになった。

ま、家の中で傘をさすのは不便だけれども、なんとかなるでしょう♪
なんたって浮世離れの身で結構な苦境を乗り越え口でいうほどダメージを受けずに生きてきた、この楽天性も恩恵なら、今日のような寛容な人に救われることがあるのはより大きな恩恵だ。
これ以上、何を望むだろう。