調御丈夫者

 

ブッダの十号に「調御丈夫者」というのがあります。

 

仏教語による「丈夫」というのは、元々「しっかりした男。一人前の男」を意味する名詞です。

「夫」がついているでしょ?これは成人男性のことなの。

 

古い落語や歌舞伎の台詞に

「・・・あっぱれ大丈夫の心意気、拙者感服仕りました」なんて出てきます。

偉大な男の強い意志に感心したのよ。と云う意味ですね。

 

「ねえ、大丈夫?」

「ええ、わたしは大丈夫よ」

ってな言い方を現在わたしたちは日常会話で使いますが、これは単語の意味が変遷した結果です。

 

 

そして調御丈夫者というのは、どんな人でもブッダの手にかかれば聖者に仕立て上げちゃう方

が、正しい意味合いです。

 

では、続きをどうぞ。

 

 

 

 

 

 

  尊師の保護を願う長老たち

 

一方、サンガでは世尊がアングリマーラの手に掛かっていないか弟子たちは心配で落ち着かないでいた。

 

一人が言った。

「パセーナーディ大王に陳情に行こう。大王は在家の信者では無いか?」

「そうだ、そうしよう」

 

 

時に世尊はアングリマーラ随従沙門を伴い、サーヴッティー市の中央を過ぎ遊行されていたのであった。そして更に世尊はジェーター林のアナータピンディカの園に至り止まった。

 

 

 

 

 

 

 

  軍隊出撃

 

同時にその頃、パセーナーディ王は軍隊を動かし、500頭の騎馬の先頭に立ち、サーヴァッティーから出て早朝森に向かって出撃していた。

森に到達すると、騎馬で移動できうる限りのところまで進み、そこで王は馬を降り徒歩で世尊の元に赴いた。

 

王は世尊を礼拝し、一隅に坐した。

王が言った。

「世尊よ、世尊はご無事で戻られたのですね。一時は賊に襲われはしないかと大変心配いたしました。ご無事で何よりでございます」

 

世尊が言った。

「大王よ、あなたはマガダ国のセーニャ・ビンビサーラ王を攻めようと騎馬軍団を出撃されたのですか?それともヴェーサーリーのリッチャヴィー族を攻めようとしているですか?あるいは他の敵王と一戦交えるおつもりなのでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

  何事も無かった世尊

 

「いいえ、とんでもありません。こちらの長老どの達が陳情にこられたのでございます。

 この国にはアングリマーラと云う殺人鬼が出没しておりまして、彼は残忍でその手は血塗られており、人を殺すことに夢中になり、この街を恐怖のどん底に叩き落としました。

 その男は人々を殺害して、戦利品として自分が殺害した者の指を切り落として首輪にするという、狂気の輩であります。

 そのため街の人々は恐怖で、おちおち外出もままならない有り様でございます。

 

 尊師がアングリマーラの出没するところへお一人で出かけられたので、心配に思われた長老どのが救援を願われたのです。

わたしは絶対に奴を逃がしません。必ず引っ捕らえ、ヤツの首に縄を掛けてやります」

 

 

 

 

 

 

 

  篤く三宝を敬う

 

「なるほど・・・ところでもしですが。

大王よあなたにお伺いしますが、その殺人狂のアングリマーラが今、自分の犯した罪を心から悔い、髪と髭を剃って糞掃衣を身にまとい、家なきものとなり、生きとし生けるものに憐れみを持つ気持ちから生き物に対する暴力を止め、与えられない物を盗むことに畏れを抱き、嘘を離れ、一日に一度の食事で満足し、梵行を行じ、慎みを保ち、良い性質を修めようと努力したとしましょう。

もし、アングリマーラが出家して、わたしの弟子と変わったとしたら・・・大王よ、その場合でもあなたはアングリマーラをひっ捕らえ、彼を罪に問うのでしょうか?」

 

 

「・・・え?仮にでございますか?

もし、仮にそんな事があれば、彼はその場合三宝ということになりますので、わたしは彼を敬い、姿を見たら敬礼し、「尊者よ」と言って立って迎えましょう。

 また、座を勧めるでしょう。

そしてまた彼のために、食の供養と、座具や医薬品と出家生活の必需品を整え、長老に相応しい保護と警護を用意しましょう。

とは申せ、飽くまでそれは仮の話でございましょう。

悪逆非道の輩がそう簡単に、聖者にどうして成れるでしょうか?」

 

 

「それを聞いて安心しました」

 

 

 

 

 

 

  アングリマーラ登場

 

その時、件のアングリマーラはそこから程遠くないところで坐って会話の一部始終を聞いていたのであった。

 

 

そこで尊師は右手でアングリマーラを指し示して、パセーナーディ大王に告げた。

「大王よ、彼がアングリマーラです」と。

 

 

するとその瞬間、パセーナーディ王に緊張が走り、王は体が硬直するのを感じた。

身の毛がよだった。

「それ、手下の者よ、やつがアングリマーラである。奴をひっ捕らえよ!」

「大王よ、恐れることは無いのです。恐れる必要は微塵もありません。彼は悪を捨てたのです」

 

 

パセーナーディ王は恐る恐るアングリマーラとされる人物に近寄った。

「・・・尊者よ、あなたは長老アングリマーラですか?」

「はい、その通りです大王よ」

「尊者よ、あなたの父上は何と言う名ですか?母上は何と言う名ですか?」

「大王よ、わたしの父はガッガ、母はマンターニーと申します」

 

 

王は言った。

「尊者よ、聖者ガッガマンターニープッタ(ガッガとマンターニーの息子という意味)よ。

お喜びください。今後、わたしは在家の弟子として、あなたの修行を支えましょう。あなたに祝福がありますように」と。

 

ここに、長老アングリマーラは

林住者であり、乞食者であり、糞掃衣者であり、三衣者となったのであった。

長老アングリマーラはパセーナーディ王に言った。

「大王よ十分でございます。わたしは三衣で満足であります」と

 

 

 

 

 

 

 

  調御丈夫

 

パセーナーディ大王は尊師の元に近づいてからこう告げた。

「不思議なことです大徳よ。稀有なことです大徳よ。未曾有のことです大徳よ。

わたしはこんなことに遭遇するとは思いも寄りませんでした。

 

世尊は調御されない人間を調御する方であり、静まっていない人を鎮める方であり、涅槃に入らない人々を涅槃に導く方です。

 

何故なら大徳よ。

わたしたちが法律でも罰則でも、武器や刀を用いてでも懲らしめる事が困難な輩を、何の力も用いず、見事に服従させてしまうとは、しかも相手が喜んで自ら従うとは。

 

大徳よ、では我々はこれで失礼いたします」

 

 

パセーナーディ・コーサラ国王は座から立ちがって右繞の礼をして去ったのであった。

 

 

 

 

 

続くよ・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

付録1 「ブッダの十号」 

 

 

ちなみにブッダの十号ってのは、阿羅漢からスタートしてブッダとして完成してゆくための段階を表しています。

ブッダになる条件というのが、様々な角度から指し示されますが、十号もブッダとして完成すべき徳目です。

 

  1. 阿羅漢(応供。3つの明智を獲得した聖者)
  2. 最上正等覚者(阿耨多羅三藐三菩提の達成者)
  3. 智徳成就(明行足。智慧と徳行の完成者)
  4. 最上善逝(最高の天界に行く要素を具足した方)
  5. 世間解(あらゆる人間の文化に精通し、これを元にわかりやすく真理を解き明かす方)
  6. 無上士(世に比類なき方。何をやらせても会得し、最高の段階に達成する方)
  7. 調御丈夫者
  8. 天人師(神と人の教師)
  9. ブッダ(完全な覚醒に至った方)
  10. 世尊(ヴァガヴァント。三界の中で最も尊いという意味ですが最高神の化身とお考え下さい。天才バカボンの語源です)

 

 

 

 

  四預流支の修行

 

わたしたちに関わることは、この十号を想う事が瞑想に繋がり、実践すると仏縁を強めます。

 

 

四預流支という修行は在家・出家に関わらず初めに実践する修行のことなんですが、ブッダの十号を想うのはこの四預流支の一番初めの修行なのです。

 

預流向の修行だから4つの預流の支えなのね。

 

禅で言う「悟り」は1の有身見(わたしが存在する、わたしがいる、わたしである)が切れて無我を達成することなんです。

阿羅漢には程遠いと言わざるを得ません。

 

 

 

 

 

付録2「4つの法則(四預流支) 

 

預流相応 第一竹門品
(一)第一 国王 

 

修行者諸君、たとえ転輪王が4つの大陸(地球全土)を支配し、統治し、君臨し、身破れて死後、幸福にも三十三天(忉利天ググってね)に転生し、彼はそこで大勢の美しい天女に囲まれ、五妙欲を心ゆくまで満足させたとしても・・・彼は4つの法則を具足することは無い。

 

 従って彼は最大激苦の地獄から完全に解脱せず、動物としての転生から解脱せず、餓鬼界から解脱せず、離別、悲痛、破滅から解脱しないのである。

 

では、君たち。

君たち聖なる多学の弟子が、たとえ少量の食料や資材によって暮らし、或いはボロ布を身にまとったとしても、君たちは4つの法則を具足する。

 従って君たちは地獄から完全解脱し、動物の転生から完全解脱し、餓鬼界から完全解脱し、離別、悲痛、破滅から完全に解脱するのである。

 

では4つの法則とは何であろうか?

 

 

 

十号の瞑想

 

修行者たちよ、ここに聖なる多学実践の弟子は覚者に対し、絶対の浄心を具足する。

すなわち

『実に、疑いなく、かの世尊は、供養に値し、最上正等覚者であり、知徳成就者、最上善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、覚者、世尊でまします』と。

 

 

 

 

法則に対する信

 

また、法則に対し、絶対の浄心を具足する。

『世尊により明らかにされた法則(真理)は現実に利益をもたらし、直截であり、全ての人々に理解できるように説かれており、煩悩の滅尽に導き、それぞれの理解力に応じて認知される』と。

 

 

 

 

サンガに対する帰依

 

またサンガ(ブッダの聖なる弟子衆)に対し、絶対の浄心を具足する。

『世尊の聖なる多学実践の弟子衆は、善に付き従い、正しい法体系に従い、正しい法則に従い日々を過ごされる。すなわち四双八輩(しそうはっぱい)の人々であり、崇拝に値し、合掌を受けるに値し、世界の無上なる福田(幸福を実らせる田)である』

 

 

 

 

持戒の実践

 

また、聖者の愛する種々の戒を具足し

『聖なる戒であり、道徳においても肯定され、わたしたちを悪趣から護る戒であり、煩悩から解放させる戒であり、識者に称賛され、煩悩に負けないための戒であり、ついにはサマディに糧する戒である』と。

 

これら4つの法則を具足することである。

 

従って修行者諸君、例えこの世界を全て手中に収めようが、4つの法則を具足することに比べれば、それは16分の1にも満たないのである。