心の働きが止滅された時、純粋観照者たる真我は自己本来の姿にとどまるヨーガ・スートラ

 

真我の特性とは、「純粋観照者」が、その元々有する性質です。

一元なのね。観照しているだけ。

 

 

一方、無常世界を真実と錯覚しているわたしたちは、普段、煩悩で心が「常に散乱状態」なのです。

よく言われるのは「人は一日に約6万回の思考が生じては消える」のだと。

 

 

この状態は常に「不足」を感じていますので、

とりも直さずわたしたちの心は「不幸」「物足りなさ」をそこはかとなく実感します。

 

 

 

雑念の内容は、中心に我(エゴ)があり、エゴを保全しようとする働きにより貪瞋癡をベースとして雑念状態を維持しているのね。これが凡夫の状態です。

  • 我を保全しようとする様々な欲求が貪り
  • 我を保全しようとする怒り
  • 我が夢中になる娯楽による楽しみ

 

 

じゃ、どうしたら本来の真我の状態である「悟り」に至るのでしょうか?

 

 

 

ねえ、悟りの本質は無我を実感する事による、五蓋の停止だよ。

  • 貪欲蓋・・・・・・(もっと欲しい、全部欲しい。所有すると落ち着き、足らないと不安が生じる
  • 瞋恚蓋・・・・・・(怒り。怒りを発散させると満足が生じる)
  • 惛沈睡眠蓋・・・・(鬱と眠気)
  • 掉挙悪作蓋・・・・(興奮と後悔)
  • 疑蓋・・・・・・・(絶対の真理など有るはずがない。この世界こそ全てである

これが停止するのね。

欲求を起こしている「自己という錯覚が停止するから」だったね?

 

 

 

ねえ、じゃ、どうしたら真我は本来の状態に戻るの?

考えてね。

 

 

それは・・・・もっとも速攻で有効な方法が

元々の状態を意図的に現出させて、なるべくその状態に留まる。

 

 

 

それが「あるがままの状態」を維持することですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

  誤解をおこしやすい「あるがまま」

 

あのね、既に悟った人が言う「あるがまま」と

煩悩にまとわりつかれているわたしたちの「あるがまま」は正反対です(^^)

 

 

以前書いた、鎌倉時代の「本覚思想」などの錯覚ね。

「人は元々悟っているので、それを自覚するだけでいい」と、煩悩即菩提と言って欲望を全開したことがありました。

 

それを「大乗」と呼ぶ、誤謬ね。

 

 

 

 

 

 

 

  目横鼻直(がんおうびちょく)

 

道元が悟った時に発したのが「なんだ。始めから目は横に、鼻は縦についていたんじゃないか?」

当たり前のことにただ気がついた。というの。

 

 

これは錯覚や固定観念が落ちたのでそう感じるんだけども、固定観念という色の着いたメガネを外さない限り、それは起こりえません。

 

 

 

 

 

  あるがままを誤解すると悟ったつもりになってしまう

 

こまったのはここで、そのように結論だけを聞くと

 

 

「俺は悟った。人は、元から悟っているんだ」

と先人の言葉を大量に脳に入れて、ただそれを繰り返すだけの凡人が大量に登場します^^;

 

 

「人は既に悟っている」

「あるがままでいい」

それしか言えません。

 

ねえ、見分けがつくよね(^^)

 

 

彼らはそう言いながら、芸能の話題、社会のご時世の批評、陰謀論、自慢話、予言、善悪二元論など世間の関心を引くゴシップから離れる事が出来ません。

 

 

 

 

 

 

 

 

  実践論

 

そこでですよ

わたしはマハームドラーとゾクチェンの明確な相違が理解できないんだけども(ごめんなさい)

 

 

両方とも「脳内の言葉を止めて、生じている感覚にひたすら集中する」という方法を説きます。

禅のほうではこれを無情説法と呼びます。

只管打坐もつまりは坐してそれを目指しますが・・・瞑想から出るとみなさん、やおら識別を発動させます。

 

 

 

ではマハームドラーの詩を参考に上げますので、読んで見てね(^^)

出典はここ

 

 

マハムドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ、真剣で忠実なる汝のために
いまこの詩を与うべし

「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ

 

 

 

ミラレパは解脱後にこれに取り組んでいますよ。

 

 

 

まっすーさんのすごいところは、ご自分で体験的にこれに気づいたというところです。

マインドフルネスと仰るけれど、(ちょっと違うな)と感じていたらゾクチェンのことだったの。

「チベットのマインドフルネス」と仰ってた意味がご本を読んで理解出来ました(^^)

同時に(すごいや)と思った。

 

 

 

 

 

 

 

「あるがまま」の意味は自然にたゆたうです。

たゆたうというのは、心を止め全身の力を抜き、ただ波間に体を預ける。のことね。

自然の一部として溶け込むと。

つまり、何も考えずNatureに身を任せるとご理解ください。

 

 

 

 

 

 

 

参考に

 

 

無情説法

 

 

 

 

 

 

 

  ゾクチェン

 

ゾクチェンとは大究極と訳されます。

よく「チベット禅」とか言われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  マハームドラー

 

マハームドラーは「大印成就」

 

一切が自分の心の顕現であり、現象と心の働きが一致したのを「大印成就」と表現しています。

これは唯識の「一切が心の現れ。ただ心しかない」と同じ意味ですし、心経の空即是色を言っています。

 

この状態に至ると、ちょっと願うだけで全てがその人物の心のままに現象化するという奇跡が起きます。

 

 

 

悟った人が何でも願い事が現象化する。というのは、お聞きになったこと、あるんじゃないかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

  悟りの規模はその現象化によって分かる

 

引き寄せ効果が起こることで悟ったか判りますが・・・

それが、その人の心の広大さに応じてつまらない現象化

  • 駅に着いたら必ず電車がホームに到着するとかね。
  • 赤信号に一度も引っかからない。とかね
  • 抽選がいつも当選するとかね。
  • 雨が降っていても、その人がそこに登場するだけで晴れる。とかね

そんなん、全然スケールが小さいので、悟ったと言っても経験が狭いことを表します。

その人だけのちっちゃな満足で、誰も得しないでしょ。まだ、無常やエゴに囚われが残っているのね。

 

 

 

 

広大な心の持ち主が悟ると、もっともっと大きな奇跡。

社会を変えるような奇跡を起こします。

お釈迦様は当時、仏教を北インドに広め、大勢の阿羅漢を生んだでしょ。

 

まるでスケールが違うの。

 

 

 

本山博先生

 

クンダリーニ・ヨーガのグルの本山博先生が

(もうちょっとうちの道場の駐車場が広いと、会員さんが困らないのにな・・・・)と思ったら、すぐに「ここにうちの建築物の土砂を捨てさせてくれ。舗装はウチでやるから」と、当時の額で数億円の工事が無料で出来た。とかね

 

 

 

 

 

 

ネドじゅん先生は凄いよね。

ある日、わたしたちの前にポッと登場したかと思ったら、あれよあれよという間に周囲を巻き込んで三脳バランス研究所ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

  悟りには段階がある

 

だから解脱より前に悟るのと、その後、解脱を経験して悟り(心解脱)を経験すると、まるで違います。

 

 

これは喩えると、30階のビルの屋上から街を見るのと、一方、宇宙に出て銀河系を眺めるのとでは、認知は違いますよね。

 

 

武蔵野市を眺望する

 

 

 

銀河系を眺める

 

 

どちらも正しいが、内在させる経験の違いにより真実に対する見解は異なる

心の広さは内在させる経験に比例