えと、サンスカーラと修行に関するご質問をいただきました。

一言でいえば行(サンスカーラ)は衝動のことです。

 

 

そしてカルマとサンスカーラは同義語とされていますよ。

それは、カルマの内容を説明したのがサンスカーラなのね。

 

 

修行はそれを把握し、コントロールし、消滅する事を目指します。

そうすると悟りや解脱に至ります。

 

 

 

ねえ皆さん、ご自分の衝動のいつがその始原か、心を探って見て下さい(^^)

これは本当に難しくて、瞑想に熟達している方なら知っています。

 

 

あの麻原彰晃さんはこのサンスカーラに「経験の構成」という、更に訳がわからん訳語を付しています。

 

なるほどね。意図は良く判るけど、サンスカーラを「経験の構成」って言われても、やはり判らんことには変わりますまい。

 

 

 

おそらく「経験の構成」の意味は、以前に経験したすべてが情報として記憶の中に埋没しているが、何かに接触した瞬間、ああしたい、こうしたいという欲求が自分の過去の経験を参考に起きると説明しているんだね。

 

過去の経験に拠って出来た情報の集積がサンスカーラだと言う意味でしょう。

 

 

一度でもスズメバチに刺されたら、蜂を見ると怖い!と思うでしょ?

そんな集積を構成と言ったようですね。

 

 

 

 

 

 

 

悟っている人は既に知ってる

 

サンスカーラと修行を簡単に説明することは大変むずかしく、もし書こうとしたら本が一冊出来てしまいます^^;

 

こんな風に・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過去にも何度か「行」に関しては触れていまして、ヨーガでも、仏教でも「行」の理解はかなり難しいんです。






とりあえず「行」とは衝動と憶えてね(^^)

 

「行」を最も簡単に言えば「衝動」です。

一切皆苦に似たのに、一切行苦ってのがあります。

実はこちらが正しいとされています。

その場合、すべての衝動は苦の因であると。

 

 

 

 

 

悟りと脳波の関係

悟りや解脱の状態は心の能動的な働きが停止しています。
脳波で測ると、4Hz以下です。この状態をθ波と呼びます。

逆に、怒ってる時はγ波で30Hz以上です。

10Hzくらいからどんどん・・・欲望ですね、怒りや性欲、執着、激怒などです。
脳波はそれに伴い増大していきます。


衝動は煩悩のスタートだとお考えくださいね。
脳波が外側の条件に触れてどんどん動くんですよ。







何も無いところから、接触が起き、心が動き出す

 

例えば喧嘩が始まる直前は互いにイライラ(衝動)がありますよね?

これがエスカレートして
①罵倒しだした、
②手を出した。
③格闘が始まり、

④ついに殺した
と想定してください。

しかしもしね、イライラが始まる以前に双方が


(相手の気持ちや相手が置かれた立場をわたしは理解しているのだろうか?)

 

と、相手を尊重し、互いの背景を想像すると、喧嘩は生じませんよね?





サンスカーラは無意識のうちに発動している
 

無意識に(なんとなくこいつは不愉快だ)と言うのが衝動ですが、これは「気分」に由来します。
まだ言葉になる以前の、嫌な気分がサンスカーラなんです。

・楽しそう
・美味しそう
・なんとなく嫌い
・意味は無いけど、なんとなく素敵で好き。

これらが衝動であり、サンスカーラです。


悟ると、そういうのが全部停止します。






悟りが生じていない場合の人(平凡な人)
 

で、悟りと逆の状態ですね。
衝動が起き、どんどんそれが増大し、怒り、執着、独り占めと無常世界の何かに囚われだすと、それらが生じ、どこかで必ず苦悩にぶち当たります。


えと、ネドじゅん先生や、まっすーさんの本に
「左脳が動き、悩みや苦悩が起きる。だから左脳の働きを止めるんだ」と言っています。

判断する、意味を与えるのが左脳の役割であると。
「楽しそう」
「美味しそう」
という判断ね。


悟っている場合は何事かに接しても、脳が淡々と現実を観察しているだけで、判断をしません。そうすると衝動(行)も起きません。


苦悩の最も初めに「衝動」が生じ。
悟りや解脱では、それがありません。







そこで一体何をしたら「修行」と言うの?
 

これをサンスカーラと言って、前世から引き継ぐ欲望です。
そして、そのサンスカーラの動きを完全に自覚しようと把握に勤めている状態を「修めている」と表現しています。


上の喧嘩の例の、
(相手の気持ちや相手が置かれた立場をわたしは理解しているのだろうか?)
という性格の人に瞑想などを通じ、わたしは変わって行こうとすること、これが修行です。



普通の人は、ただその時の場の雰囲気に乗っかって、気分のままに流されています。
全く自覚が存在しません。

 

 

 

分かってもらえましたかね^^;

 

 

 

 

 

えと、きっと疑問が出ると思うので、追加でちょっと言っておくとね。

「じゃ、道元やSさんの名色の停止が悟り。というのは、どう絡んで来るのだ?」と。

心身脱落のことですね。

 

また、十二縁起のところで再び出てきますけども、

  1. 無明
  2. 名色(これが停止したのを心身脱落と言います。が心の働きで、は肉体)
  3. 六処
  4. 接触
 
4の停止で(自分はどこにもいなかった)と知ります。
これが無我の体験ね。
 
煩悩の主体が消えたものだから、欲望も消えます。
これが悟りの状態。
 
しかし、無明そのものやサンスカーラは残っているのね。
3と4、つまり識別と名色は連動していて、どちらかにアプローチして止めてしまえば、識別も名色も停止して悟りがやってきます。
 
ところが、無明と行は密接に絡んでいて、
無明が破壊されると完全に衝動が消えます。
これはほぼ、同時に起きます。
 
ここのところを煩悩漏と呼びます。
 
 
 
 
 
 
煩悩漏とは?
 
元々、わたしたちは涅槃にいますが、無常世界が大変楽しそうなので、興味がひょいと惹かれる訳ね。
いいかな?
 
この状態を涅槃から無常世界に煩悩が生じて漏れを起こしていると言うので、お釈迦様は「煩悩漏」と表現しているんだね。
 
分かりやすく具体的に言うと、それが
  • 我であり、
  • 我から生じる様々な貪瞋癡ね。
 
あのね数年前にも喩えたけれど、鬼滅の刃みたいな良く出来たアニメを見たと。
ワンピースでもいいよ。
 
したら、あまりにそれが面白すぎて、半端ない感情移入をあなたは起こしてしまったんだと。
 
ねえ。
それが行き過ぎたので、自分のことを炭治郎くんやルフィーや悟空や、ジョジョと同化した状態。
本当の姿アートマンであることをど忘れし、「海賊王に俺はなる!」と言って喜ぶようになってしまったと喩える事ができますよ。
これが煩悩漏。
 
 
そして解脱はそれが、つまりその漏れがね、尽きたと。
 
するとこれが漏尽ね。
そして漏尽に入ると
無常はすべて苦悩であり、
錯覚から、無常の何かを得られたら・・・・それは
  • 恋人かも知れないよ。
  • 財産かも知れないよ。
  • 名誉かも知れないよ。
ともかく、それを得ることにより、その結果として「わたしは喜びに満たされ、幸福になるんだ」という誤謬。
無明と渇愛を止めるんだと、気がつく。
それには精神集中(精神集中をある理由から中道と呼びます)の方法論だ。
このように四聖諦が起きます。
 
四聖諦が起きると、貪瞋癡が剥がれ落ちます。
最後に無明が崩壊し、アートマンに至ります。
 
 
大川隆法さんが嘘っぱちな漏尽を吹聴しているので、正しい漏尽を書いてみました(^^)
 
つまりこの世的欲望を完全に無くすことではなく、この世的欲望に振り回されることなく高度な霊能力を使いこなせることこそ漏尽通であり、「世間解」という立場、「智慧」の立場とも両立すると考えられる。
これは本来の仏陀による新説である。


巨大な霊能者でありながら、通常人と全く変わらないせいかつをし、「平凡の中の非凡」を実践してゆく能力です。
 
大川隆法著「漏尽通力」冒頭部より
 
多分、旧著で専門家に批判されたので、新たに描き下ろしたのでしょう。
読むと、どうやら反省して(反省にうるさいから)お勉強したようなんだね。
 
でも、凡夫の生き方が抜けないので、高級腕時計やオーダーメイドのスーツにネクタイ。それらに身を包み、経営や金儲けや大国の動向や政治にご執心です。
 
もし、本来の漏尽を仏典から持って来ると、「旧著と全然違うやん。ブッダと違うやん」と信徒から疑問がしょうじるので、改訂版の冒頭に「これは本来の仏陀による新説である」だって。
と、言うことはやはり釈尊の説いた漏尽は全然、異なる訳です。
 
 
 
 
 
 
 
悟りでは無我に留まり、無明の破壊までは行きません。
 
確かにSさんはお悟りになられています。
しかし、言っちゃなんだけども、コーヒー飲みたい衝動や、他にこまごま衝動あるのが、Twitterの呟きからうかがえるのね。
 
 
もし本当にブッダだったなら、けっして髪の毛を切ったとか、姑を美容院に送ったとか、何番弟子からごちそうを贈ってもらった。今日は熱がある、喉が痛い。薬が効いた。PCの接続がどうだ、ネットがどうだという発言はしないでしょう。
 
娘さんのボーイフレンドに、愛用のキューをやっと譲ったとかさ。
(運動不足を補うために、ビリヤードを時々おやりに成るらしいよ)
お釈迦様は初めて息子の話を耳にしたら
「ああ、邪魔者(ラーフラ)が出来た」と言ったので、彼の名は障害とか邪魔者という意味のラーフラなの。多分、血縁関係は無いと思うね。シッダールタが出家して5年後に生まれたそうだもん。
インド占星術の羅睺羅ね、西洋占星術ではドラゴンヘッドと言うよ。
 
そんなこと呟いて誰得なんですか?という話です。
 
普通の日記じゃありませんか。
(俺はここにこうして生きている。注目してくれ)ということでしょう。承認欲求なの。
これはまだ無常世界を離脱出来ていないの。
 
だから無我を悟っただけであり、到底わたしはブッダだなんて宣言しちゃだめなんだよ。
 
 
それでも、今のわたしよりもずっと偉いけどね^^;
 
 
 
道元もそんなエピソードあります。
道元は言いつけを破った或る弟子に激怒して、彼を永平寺から追い出し、あまつさえそれでも怒りが治まらず彼が坐す場所の土を何尺も掘らせて捨てた。
「坊主憎けりゃ」を地でやってます。
これは衝動なの。
 
これが在家の最終着地点で、それだけでも尊敬には値しますが、解脱ではありません。
 
「無我の悟り」と無明・サンスカーラの破壊である「解脱」を明確にしました。