転生活仏 菩薩の修行って何すんの?

 

般若心経とは関係無いけれど、もし、みなさんが菩薩道を選択した場合なのですが。

その際はトゥルクという瞑想修行が欠かせません。

 

 

ねえ、皆さんは不思議じゃありませんか?

(きーめた。わたしは今から菩薩になるんだ)と思えばもうそれで菩薩なの?と。

そんな訳無いよね。

 

そう考えている人いるようだけどね。

わたしがマイトレーヤ(弥勒菩薩)だとか言ってらっしゃる^^;

 

 

おーし、決めた!

わたしは今からスーパーガールだ

じゃ、空飛んで見せてよ。

 

 

 

 

 

  初めは阿羅漢から出発

 

阿羅漢は四念処を成功させればいいけれど、菩薩に移行するには、自分で思うだけでは成りません。

菩薩はみなさんが想像するのとは、異なる修行課題があると考えて下さい(^^)

 

 

 

 

  六波羅蜜と八正道

 

総じて、八正道は六波羅蜜に置き換わります。

が、内容をよく見れば、布施行が追加されただけだと気づきます。

布施行はお釈迦様も、在家の重要な実践と言いました。

だから実際に於いて基本は変わりません。

戒定慧なのです。

 

 

では、具体的に何が違うと思いますか?・・・・それは

 

  • 解脱した。・・・・だから、まず解脱しないと菩薩は始まらない)
  • 涅槃しないで、また苦海に戻る。
  • そこでもまた解脱する。
  • 他人に真理を説いて、弟子を解脱に導き命を終える。
  • また苦海に戻る。
  • そこでもまた解脱し、真理を説く。
  • 命を終える。
  • また苦海にもどり人生ゲームのような双六の始めに戻る。

 

これを初期大乗では3阿僧祇10万劫続けなさいと。

そこで初めて「わたしはブッダである」と公言できると言うのね。

 

 

 

 

菩薩は阿羅漢からステップアップしてゆくの。

 

 

 

 

 

  観自在菩薩はすでに解脱を果たしているが、まだ仏陀ではない

 

ここは般若心経が補完するのですが、観自在菩薩は深般若波羅蜜多を成就して、阿耨多羅三藐三菩提も得て、すでにブッダの状態にいます。

 

涅槃に到達しているんだね。

だとしたら日本の仏教の常識では、観自在仏陀と表記されているはずです。

 

しかし、観自在菩薩なのね。

 

つまり観自在菩薩はすでに、先に於いて解脱はしたが涅槃せず、欲界に戻って救済を続けていると見るべきです。

 

 

 

 

 

 

 

  法華経などの初期大乗仏典では解脱出来ない

 

因みに、Wikipediaに有るように

天台宗は法華経を最高と定めて所依とし、教相判釈を大成したが、これによって法華経以前の教えはすべて歴劫修行によるものでしかないと定めた。最澄も、この説により他の経典は法華経に劣ると見なし南都六宗を批判した。

また、日蓮もこの説を継承し、末法無戒と結びつけ、『観心本尊抄』に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」と述べている。日蓮正宗などの富士門流では三大秘法の本尊を受持することで、歴劫修行を得なくても成仏が可能だと説いている。

 

最澄は他人の説を何ら疑うこともなく、批判することなく、検証もせず、法華経が即身成仏(提婆達多品の龍女の成仏の記述を根拠に)するので最高とし、それ以前の奈良仏教を全て否定し去りました。

(なお、空海はこれで最澄を見限ったの。最澄は、お経を読むだけのお坊さん)

 

更に、日蓮はその最澄をストレートに信じて受け入れ、法華経の三大秘法の力により、成仏可能だとしますが・・・最澄や日蓮を始め、未だに法華経によって成仏したと宣言した人はいません。

 

 

机上の空論というか、ただの観念論なのね。

理証、文証、現証とか言うけどね。

  • 理証・・・理屈で納得
  • 文証・・・法華経に説かれている
  • 現証・・・実際に経験が生じる

これはどこの仏教教団も異口同音に同じ事を言います。

じゃ、どれも正しいのか?という話になりますよね。

 

  • 理証・・・教祖の出版物に理屈が載ってる。それを根拠にそこの教師が理屈を言う。
  • 文証・・・聖書や仏典に見合った記述を探す
  • 現証・・・信徒の神秘体験や、お蔭話を披露する(大教団では必ず丁度いいのが一人や二人いるもので、みんなこれでやはり教祖や教団は正しいんだ考える)

 

 

※法華経の三大秘法

本門の本尊、本門の題目、本門の戒壇の三つ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ブッダの十号(これが如来)

 

大乗仏教というのはこれを歩む道です。菩薩はこれを一つ一つ達成していくの。

  1. 阿羅漢・・・・・・供養にたいし最上の福を返す人
  2. 最上正等覚者・・・阿耨多羅三藐三菩提を得た人
  3. 知徳成就者・・・・智慧と徳行の完成者
  4. 最上善逝・・・・・最上天界(有頂天)に転生する要素まで具足した人
  5. 世間解・・・・・・人間界の科学や文明、文化に精通し、それを背景として法を説く人
  6. 無上士・・・・・・王の中の王、神の中の神、ブッダの中のブッダ。比類なき人
  7. 調御丈夫者・・・・どんな魂をも解脱に導く人
  8. 天人師・・・・・・神と人の教師
  9. 覚者・・・・・・・完全な六神通を土台として真実に到達した人
  10. 世尊・・・・・・・世に最も尊い方(ヴァガバント)

 

神の中の神・・・・神様が「神様!」と崇めるのが無上士だと言う意味。

 

 

これは四無量心を背景に行われます。

これが菩薩なのね。

菩提薩埵・・・阿耨多羅三藐三菩提を獲得するために、苦海を修行の道場と見る人ね。

 

 

 

 

 

 

  悟っただけではブッダには遥かに遠い

 

だからね「わたしはブッダである」と悟っただけで言う人がいますが、それに対しわたしが「それは慢心」という理由は、

  • 四聖諦を経験していない
  • 輪廻や転生のメカニズムを熟知してない
  • 六道に暗い(例えば阿修羅のことをみんな誤解していて、殺し合いする生命体ではありません。神の仲間です)
  • 神通や輪廻を否定する
  • 八正道や瞑想などの修行を不要と言う
  • スジャータが発した言葉でゴータマが解脱したと主張する

などを上げる事が出来ます。

これは明らかに「悟った」だけであり、ブッダたる経験を欠いています。

 

 

また「神通の先に解脱はない」とおっしゃいますが、そもそもそれが悟りしか知らないと自分から白状したようなものです。

 

 

解脱は六神通の最終で得るものなの。

一体、どこから唯識の教理や如実知見や十二縁起や四聖諦が出てきたと思っているのでしょうか。

そりゃわたしたちが分かりやすく比喩を交えて解き明かしているから、意味は判るでしょうよ。

 

 

 

 

  情報を得ただけで、精通が生じたと考えるか?

 

しかしやね、みなさん料理本のレシピだけ見たら、食べなくてもそのお料理を美味しいはずだとか、これは味が濃いに決まっているかとか評価出来ますか?

 

ガイド本だけ読んでね、ミニーマウスもダルシネアも知らない人物がパルケエスパーニャと東京ディズニーランドのニュアンスが理解出来ますか?

 

 

だからね、四聖諦と聞いてその内容を言うのは解説本を見たら誰でも言うでしょうよ

「知ってるよ。苦集滅道でしょ?苦は四苦八苦で・・・」

 

でも、それでこの人は「わたしは四聖諦は知っている」と言うでしょう。(観念的に理解した人)

実際に体験した成就者も「四聖諦を知ってる」と言うよ。(実際に経験し精通を起こした人)

 

上は観念論者で、下は体験者なんだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  トゥルク

 

トゥルクとは何かというと、簡単に言えば「転生の練習」と考えて下さい。

今、チベット仏教で「トゥルク」と言うと、転生活仏とか化身ラマという風に日本語に訳されています。

 

 

有名な方の筆頭は「ダライ・ラマ」で、「タントラ狂気の智慧」の著者チョギャム・トゥルンパ師も 

 

 

トゥルクとされています。

 

 

「虹の階梯」のケツン・サンポ師もそうですし、チベットには大勢いらっしゃいます。

 

 

トゥルクの瞑想修行で生まれ変わりの練習を修めていないと、死後、中有に入った時に翻弄されてしまって、ここ!と言う狙った生まれ変わりしないのね。

 

 

 

ねえ、(仏教の修行の続きをしよう、功徳を積もう)と考えているのに、日蓮宗とか浄土系の檀家やお寺に生まれたらどうしようも無いよね?

宗教はアヘンだと言う国家も有るしね。

 

 

バルドの一部はこんな感じ

ヒエロニムス・ボッシュの絵

ずっとこんななら楽

 

 

 

 

 

 

  バルドはキリスト教で言う煉獄のこと

 

なので来世も、もし、今の継続を狙ったら、バルド(中有、または中陰で、いわゆる49日の世界。異なる五蘊で異陰とも言います)で、自分のカルマに翻弄されるんだけど、その影響を最小に押さえたいと思ったら、トゥルクの瞑想修行が必須なのね。

 

 

 

下手したら来世、菩薩の誓いを忘れてしまい、菩薩道どころでは無い転生になってしまいます。

その場合、一生を棒に振るというかね。

 

なので、菩薩の誓いを死ぬまで唱え続けるのは、大乗の修行者にとって当然のことと言うか、夢の中でも唱えている自分がいて常識です。

 

 

 

今生で涅槃したいと考える修行者はその限りではありませんよ、勿論ね。

 

 

 

 

ヨーギーに転生している方にトゥルクがいるかも知れません。

多分、日本の宗派仏教には転生しないと思うのね^^;

皮肉にも、日本の仏教よりもヨーガのほうが初期仏教に近いんですもの。

 

 

たまに全く別な処に転生する方もいるようです。

 

 

 

 

 

 

  生まれ変わりの選択権など凡夫にはない

 

なんでこの話をしたかと言うと、なんだか自分の意志で来世は仏教の修行者だとか、菩薩だとか、性別やらを決定できる選択権を有していると思っている方が沢山見えます。

 

しかし、それはほぼ絶望的だと考えてね。

 

 

実情はそれなりの苦労が有ると言うことです。

毎回毎回、人生苦や死を覚悟して転生してくるんですよ。

 

 

 

そこからわたしは「真摯に阿弥陀如来の名号を一度でも唱えたら、西方浄土に生まれる」という、信仰はどうなのかなと思っています。

 

希望を念じるだけで来世が決まるなら、誰もが「比類ない美貌を有して、大富豪や国家の権力者に生まれる」か、そこの子女ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

  ポア

 

オウム真理教が無差別殺人を隠喩で「ポア」と呼んでいましたが、正しいポアの概念は「意識を浄土に移し替える瞑想技法」のことです。

 

なので、ポアも一種のトゥルクの技法なのじゃ無いかと考えています。

この場合、当然師はブッダのステージで無ければなりません。

 

 

一例だけど、弟子の臨終の間際に。生前の師がそこで信徒の死を待っているのね。

で、弟子(あるいは信徒)が死んだら、その真我を自分の体内に取り込むの。

で、師は自分のチャクラからその魂を逃がします。

 

  • ビシュッダから出たら阿修羅。
  • アジナーから出たら天界。
  • アナハタから出たら人間。

 

トゥルクは自分のチャクラから意図的に出ます。

ポアでも、自分のチャクラに導く方法も説かれています。

これはバルド・ソドルがそうじゃないかな?

 

 

 

 

 

 

  臨終正念(命を終える際の心構え)

 

バルド・ソドルは「聴聞による解脱のお導き」と訳されています。

「聴聞による」というのは、死者の耳元で囁くからなの。

 

こんな風に行われます。

幸有るターラーよ、よく聞きなさい。

右側からやってくる暗い緑色の光を避けなさい。

そして、正面のまばゆい法界の白銀光に飛び込みなさい。

 

バルド・ソドル

複数のバージョンが存在します

 

 

これを臨終正念といって、浄土仏教でも重要な概念です。

 

 

死の間際に、心を乱しちゃ転生に失敗するので、安らかに死ぬために阿弥陀如来などを観想しなさいと言っているのね。

 

うまく行くと、本来の自分のステージよりも高い世界に転生します。

悪業が多いと、その世界で苦労するかも知れないけどね。

 

 

 

 

ああっ・・・尺が無くなったので、般若心経は次回に言いますね^^;

これだけでもそんじょそこらの仏教書にも書いて無いと思うんだけど。

 

 

 

 

 

 

 

  般若心経は密教経典だけども、大乗ではない

 

心経と言うのは、密教経典なんだけど、そこで説かれているのは小乗の解脱なのね。

大乗の片鱗もありません。

 

 

「自分が涅槃したらそれでええ」という意図の元に記述されています。

 

 

要するに即疾で解脱できるから密教のカテゴリーなの。

でも大乗の思想はこれポッチも説かれてはいません。

 

本当はその事を言いたかったのだけど、また悪い癖でだらだら書いてしまいました^^;

涅槃したらどうでも良いじゃないか?と思うよね。

ねえ、だったらみんな小乗を選択しますわね?

 

でも大乗の涅槃と、単に欲界から涅槃した場合はやはり歴然とした大きな違いが存在します。

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ「発菩提心」(菩提心を起こす)

 

菩薩の必須「大乗の誓い」

発菩提心(ボーディ・チッタはブッダの心という意味)

 

 

例えばね、あなたが「この世界は無常ですよ。タレントの追っかけが楽しいと感じるのは、自己洗脳による虚構なのよ」と言ったとしますよね?

 

したら、その人物は悔しくて、負けじとあなたにこう言うでしょう

「あなたは本気で誰かを好き成った事が無いからわたしの気持ちがわからないのだ。本気で人を好きになった事が無いあなたに、わたしの気持ちを理解できる筈はない」と、あなたを見下し嘲笑うか、または怒りだす。

 

そんな時に、怒りを返さずに(ああ、このひとは今生も、来世も水面に映る幻影の様な虚構に翻弄され、苦悩の生まれ変わりを繰り返す哀れな魂である。なんて気の毒なことだろう。どうか、このひとにもホトケの慈悲が届きますように)と思ったら、それが慈悲心であり、ボーディ・チッタなの。

 

 

なので、そう訓練することが、大乗の誓いを最低でも10万回は唱えなさいと言う意味であり、また生まれ変わっても大乗の道を歩む種子を植え付けるという狙いなのね。

 

自分の涅槃は後回しでいいから、幻影に翻弄される人々を真理に目覚めさせたいと。

実は何を隠そう、それこそがブッダに至る心の形成なのね。

 

ねえ、お釈迦様は初めに成道なさった時に、さっさと一人で涅槃すりゃ出来たでしょう?

じゃ何のために80歳まで、ご苦労なさったのかと。これがボーディ・チッタだと言うの。

 

 

 

 

「虹の階梯」から

法界というのは、涅槃の次によい世界です。

マハー・ヴァイローチャナは法界にいます。

 

「リクパ」明智の輝き

 

 

つまるところ、真っ先に自分自身が六神通を身につける。または、自分がブッダにならないと誰も救済されないと知ることになるのですが、そのサンスカーラを内側に作り上げようと意図しているという訳です。