えとね、般若心経の話をまたまたひつこくやろうと思ったの。
ん~、また酷い勘違いを起こしている人を見かけたのね。
で、今日はその前提として、皆様に押さえておいて欲しい事があります。
解脱と悟りは全く違う経験
一つは、解脱と悟りは違う経験なのだと、前から言ってる事に関してね。
以前、大変な人気を博した仙道家の高藤聡一郎先生がいました。
もう人間が嫌になられたのか、わたしたちの前から姿を消され何十年かになります。
高藤聡一郎先生は、解脱に関する話題を分かりやすく本に著した方なのね。
この書籍は解脱に関することで埋め尽くされていて、悟りには全く触れられていません。
この中にこんな記述があるんです。
仏教やヨーガの神秘主義のように悟るためか?
もちろん、それもある。
しかし、それだけではなく、もっと現実的な目的があるのだ。
と、言って不死の世界に入って行くことがこの後、説明されますよ(^^)
そして「もちろん、それもある。しかし、それだけではなく」と悟りと解脱が別の経験であることを匂わせているんです。
でもこの頃、明確に仏教で解脱と悟りの相違を言う人がいなかったため、高藤先生も(悟りはとりも直さず解脱に他ならない)という日本の仏教の常識に倣っているからこんな表現なのね。
しかし、先生は体験的にその違いを知ったようです。
- 悟りは抽象的
- 解脱は現実的
と言う風に捉えていらっしゃいます。
真我の乗り物 わたしたちの内側に存在する別の身体
えと、各チャクラには意志で動かす別の身体が格納されていて、これは秘密だけど出血大サービスです。因みに、これを発動させる力を「神足通」と言います。
- ムラダーラ・・・・・地獄と餓鬼に行く身体
- スワジ・・・・・・・中有の動物界と人間界に行く身体
- マニプラ・・・・・・六道全てに行くことが可能、意生身とか応身と呼びます。
- アナハタ・・・・・・色界と重なる無色界に行きます。本性身と呼びます。
- ビシュッダ・・・・・純粋色界に行きます。報身と呼びます。観世音はここの人。
- アジナ・・・・・・・法身。純粋無色界で活動。光の身体
- サハスラーラ・・・・涅槃に入る身体。金剛身。実際に形状はありません
大乗仏教
ちなみにだけど、本当の意味の大乗というのは、4のアナハタから上の修道体系を言いますよ。
どう言うことかと言うと、純粋色界や純粋無色界で身体を使って、また八正道やヨーガや瞑想があると思って頂戴ね。
クンダリーニも、色界や無色界のクンダリーニが上がります。
四無量心や、悟りや功徳が無いと、これらの身体に意識を移して活動することは出来ません。
元々持ってるのね、ホントはね。
でも、動かせないだけなの。
どうしてかと言うに、五妙欲が欲界にあるので、それに強く囚われていて、意識が物質優位の欲界に固定されているのがその理由です。
判るね(^^)
だから初めに「正見」で、この無常を離脱するよう促しているんですね。
正見は前の日記に書いたので参考に見てね。
「人間関係の悩みや人生の不安をなくしていくことが正見です」
そんなの嘘だって・・・^^;
だから、日本で「大乗」って言うけど、一体、日本の仏教は何をやっているのか?というのがわたしの印象です。
仙道の出神「陽神」
高藤聡一郎先生は五分法身を「陽神」と呼んでいます。
その場合、小乗というのは、梵行によって欲界(六道輪廻が存在する世界)から離脱することで、そこから涅槃に入ろうと狙っています。
えと、これについて詳しく言うと、欲界を超えたのが梵天界なんですね。
ここには性別が存在しないので、性欲そのものがありません。
なので梵行とは性欲の捨断が主な実践なのですが、これと梵天のもつ心である「四無量心」ね。
つまり、四無量心と梵行で六道を超越出来るの。
ここが小乗と大乗の分かれ目です。
そこで、大乗というのは、もはや輪廻は眼中に無く、お釈迦様のステージを狙っていて、まさにブッダや如来を目指す修道論なのね。
菩提薩埵(阿耨多羅三藐三菩提を目指し、解脱しても功徳を積むために敢えて輪廻に挑む人)は、この苦海に戻るでしょう?
妄想で自分のことを菩薩だのマイトレーヤだのと言う人いますけど、そんなのに就いてっちゃ駄目だよ^^;
インドにおける民衆の古くからの願望
ここが日本の人は全く分かっていません。
「元々、ホトケであると自覚することが大乗」と言っています。
当時のインドの人の願望が輪廻の停止なので、お釈迦様は単にそれに応えただけなの。
これが小乗ね。
しかし、仏滅後(やはり如来がいないと全然アカンわ。どうしたらいい?)と、困り果ててブッダや如来になる研究が始まったのが「大乗」のスタートでした。
これには先にも言った様に膨大な功徳が必要なので
「自分だけの涅槃を目指す考えは捨てよう。みんな一緒に涅槃を目指そう」と、功徳を積むために言い出したの。
この人たちは六波羅蜜を主張したわけね。
これに乗ったのが在家で解脱したい人々。
彼らが合流してきたの。
「みんな一緒に涅槃を目指そう」と言ってるから、相手にしてくれるだろうと。
この辺からもう、仏教が理解しがたいものに成っていきます。
在家ではせいぜい「悟り」までしか得られないからね。
悟りと解脱が同じように説かれ出したの。
中国以降、荘子も相まって、悟りと解脱の混同が起きます。
で、件の般若心経というのは、悟りではなくて解脱のために説かれた教えなのね。
第四の意識
通常の意識・・・・・・・・β波
夢の意識・・・・・・・・・θ波(レム睡眠)
夢も途絶えた意識・・・・・δ波(ノンレム睡眠)
サマディ・・・・・・・・・δよりフラットな波形
大雑把なので、鵜呑みにしないでね^^;
解脱というのは、通常人が気絶状態なのに意識が活動しているの。
えと、アチャンチャーの語録に「ブッダは寝ない」という記述を見たんだけど、それは本当です。
- 通常の意識・・・・・・欲界
- 夢の意識・・・・・・・色界
- 夢も見ない意識・・・・無色界
- サマディの意識・・・・涅槃
それを踏まえて、高藤聡一郎先生の次の文章を見てね。
最古の仏典「ウダーナ・ヴァルガ」に見える「究竟涅槃」
それは出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。――それが苦しみの終滅であると説かれる。
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。
そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。
これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。
判りますね?
心経はこの究竟涅槃の様相を語っているの。
この世界のことじゃないの。
解脱と悟りの区別も知らない。
深般若波羅蜜多も分からない。
「心経は老死も苦悩も一切は無い、四聖諦も八正道も否定しているから好きだ!」
これはもう世迷い言というか、たわごとというかね。
心経に励まされたとか、ブッダをも否定した心経とか、それ全部間違っていますから^^;
次に詳しくやります。