前回の続きね(^^)
自分で言うのも申し訳ありませんが、今日もややこしいです。
噛み砕いて説明しますので、どうか皆様、注意深くお読みくださいね。
前提理解
バラモン教が一新されたのがヒンドゥー教(インド教の意味)です。
そしてヒンドゥーの修道論が様々なヨーガね。
ヒンドゥー教はバラモン教に仏教やジャイナ教などが総合的に取り込まれ、昇華したものとお考えください。
現在、インドに仏教が消滅したと言うのは、融合してしまい境界が無くなったのだと。
ブッダは仏教を新たに起こしたのではなく、真理を説いた
真実のところ、お釈迦様は新たな信仰を起こしたのではなくて、正しいバラモンの教えに連なる聖者のお一人です。
ちょうど現在のお坊さんがブッダの教説が判んなくなって、大乗経典によって非仏教の教えをブッダの真理と説いている。
そのような同じ構図が当時のバラモンのパラダイムにも起こっていたの。
あなたがもし、てんで間違いだらけの仏教が説かれている社会でね、正しい真理に到達しました。
で、それを人々の恩恵のために説こうとしました。
その時「わたしは仏教の徒である」と言うと、先入観によってみんな法華経とか禅をあなたが説くんだと印象を持つのね。
「どの辺の教えか?浄土か?禅系統か?法華経か?密教か?小乗か、大乗か?」とね。
「なんだ八正道に四聖諦か?小乗なやつだ」と。
だからその場合、あなたは敢えて「仏教です」とは言えず、新たに1から法則を説く道しかありません。
お釈迦様はそうだったの。
「正しいバラモンの教えです」とは言えなかった。
そこでは正しいバラモンもいるし、変なバラモンも混在していますわね?
それを十把一絡げで「ブッダはバラモンを否定した」と言うのは正しい認識ではありません。
現在でも当然、変な僧侶もいるし、正しい道を歩んでいる僧侶もいると言うことです。
そんなだから(仏教の専門家であるお坊さんが言うんだから・・・)と、思って聞いて何でも受け入れていると、東京ディズニーリゾートに行くつもりが、近場の近鉄パルケエスパーニャにつれて行かれて「ここが目的地だ」と言われても気が付きませんよ。注意してね。
お経の内容を取り違えている
お経について酷い誤読をなさる人がいて、ワザとなのかバカなのか、お経の解釈が全然間違っています。
よく見るのが、般若心経というお経は、冒頭、観自在菩薩が
「サーリプッタよ、深般若波羅蜜多を行じたら、五蘊は皆空なりと照見し 一切の苦厄を超越したぞ」
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見 五蘊皆空 度 一切苦厄 舎利子是
これは深般若波羅蜜多によって究竟涅槃に入ったことを語っていまして、この無常を根本とする煩悩世界のことではありません。
しかも念の入ったことには、深般若波羅蜜多は六波羅蜜多の智慧波羅蜜多では無いんです。
究竟涅槃では老死も八正道も四聖諦も無いと言っているのであり、わたしたちに老死が無いと言っているのではありません。でもこの冒頭を理解できず、飛ばす人が大勢います。
出家しない人が深般若波羅蜜多をやっても、究竟涅槃には到達出来ません。
また「三明経」というお経はよく、ブッダが梵天の存在を否定した証拠だとされたり、バラモンを否定した根拠だとされています。(実際は、梵行(ブラフマ・チャリヤ バラモン必須の行)やってないバラモンは話にならない。と語ったお経)
お釈迦様が敬愛するバラモンもいたのです。
また、毒矢の喩え(マールンクヤ経)は、よく、死後の存在をブッダが否定したお経だとされています。(実際は、マールンクヤがスピリチュアル思想に染まってて、実体験を先にしろ。とブッダがサジェストした内容)
梵行
お釈迦様が伝統的なバラモン思想の延長線上に立つ聖者だと言うのは、梵行を中心に弟子の修行を課したし、何よりも「城邑(城下町)」というお経には
「わたしはいにしえの聖者の聖なる古道を発見したのだ」
と明言されています。
梵行のことなのね。八正道は梵行を更に敷衍させた修道論です。
お釈迦様も始めに成道された時、この様に宣言しました。
「梵行已(すで)に立ち、所作已になし。自ら後有を受けざるを知る」
梵行はなし終え、残す修行は何も無い。
わたしに来世の生存は尽きたことを自覚した。
城邑(または古城)
では出家修行者諸君、例えばここに人がいたとせよ。
彼は林で道に迷い、彷徨った挙げ句、ふと偶然、古代の人々が辿った小径を発見したとしよう。
その人は、その路にしたがい歩み行きて、そこで古(いにしえ)の人々が暮らしていた古城、そして荘苑、岸辺も麗しい蓮池を備えた古の都城を発見したとそのように想定せよ。
諸君、その時、その人物は王、または王の大臣にこう報告したのである。
「尊き方に申し上げます。わたしは人なき林を彷徨っていたのですが、そのさい偶然にも古代の人々が歩いた古い小径を発見したのであります。
そして、その路に沿ってずっとわたしは歩み行きました。すると、その先には古人の暮らしていた古城があったのであります。
それは荘苑もあり、岸辺も麗しい蓮池を備えた古えの都城でありました。
尊き方よ、願わくばかしこに城邑(城下町)を築かしめたまえ」と。
さあ君たちよ。そこで王は早速そこに城下町を作らせたところ、やがて、その城下町は栄え、人々はあまた集まり来たりて繁栄を極めるに至ったのである。
そこでだ、君たち。
それと同じく、わたしはまさに過去の正等覚者たちが辿った古道、小径を発見したのである。
では諸君、過去の諸仏が辿って来た径とは何であろうか?
それはかの聖なる八段階の道のことである。
すなわち、
- 正しい見解(無常世界に真の幸福、安らぎ、自由は存在しないという見解)
- 正しい思索(邪悪、貪り、無痴を離れた思考)
- 正しい言葉(悪心を背景とした悪口、二枚舌、ウソ、ギャグなどの綺語を離れ真実を語る)
- 正しい行い(生き物を傷つけない、邪淫、飲酒から離れる)
- 正しい生活(詐欺、強盗、屠殺業その他から離れ、托鉢乞食によって生活する)
- 正しい奮闘努力(四正勤:ググってね)
- 正しい瞑想(正念正知から四念処へ)
- 正しいサマディ
である。
君たち、これが過去の正等覚者たちが辿った古道、小径であり、この道にしたがい行きてわたしもまた、老死を知り、老死のよって来るところを知り、老死のよって滅するところを知り、また老死の滅に至る道を知ったのである。
君たちよ、わたしはまた
(・・・十二縁起が説かれる)
さあ、君たちよ、わたしはそれらの事を知って、比丘、比丘尼、ならびにウパーサカ(在家帰依信徒)、ウパーシカ(在家帰依信女)に説いた。
従って君たちよ、この様な経緯を経て、この聖なる修道体系は次第に広まり、多くの人々よって知られ、また説かれるようになったのである。
カルマの構成要素 全ては3つの自性の働きで生じる
カルマは
良い果報となって還元される善業と、苦悩の現象化として還る悪業と、もう一つ。
どちらでもない業があります。
- 善業
- 悪業
- 灰色の業
次に3つの領域があります。
- 身業
- 口業
- 意業
そして貪瞋癡の性質があります。
- 貪・・・貪り
- 瞋・・・冷淡・嫌悪
- 癡・・・無知(楽しみを求める事が価値観で。知識が無いという意味では無く、知性が無い。ね)
タマス ラジャス サットヴァ
それぞれ3つずつ有るのは、根本が、次の自性と呼ばれるエネルギーだからです。
これが相互に働き合い、この無常世界を生み出しました。
- タマス・・・・停滞、堕落、ヴァイブレーション(音)
- ラジャス・・・行動、怒り、熱
- サットヴァ・・追求、貪り、光
例えば、ビッグバンという大爆発が宇宙の中心で発生し、この宇宙が出来たとされていますが、
爆発とは
- 光・・・・・・・サットヴァ
- 熱・・・・・・・ラジャス
- 衝撃・振動・・・タマス
となります。
三界の発生と活発度
次に3つの自性を素材として、三界が構成されます。
- 欲界・・・六道が存在する熱が優位の世界。
- 色界・・・・バイブレーションが優位で構成されたイメージの世界(わたしたちは夢で経験)
- 無色界・・・サットヴァ優位の世界で情報が光として存在(凡夫は気絶状態。瞑想家はサマディの状態)
だから、どの世界でもその世界における活発度は欲界なら、運動量は熱で表現することが出来、
色界なら、高音は高位、低音は低位。
無色界なら、高位の世界はまばゆく、低位は暗いです。
日本の雅楽は非常に精神性と霊性が高く、全くエモーショナル(情動の動き:スワジスターナの領域ね)を超越しています。悟りを表す音楽はとても単調で退屈に感じます。
集中ってそうですよね?
古代は本当に神が身近に感じられたのですね。
現代は粗雑な物質に文明が固定されているので、霊性が失われていると判断できます。
一方、現代のポップスはその極にあります。
情緒に訴えるわ、感情をぶつけるわと言う感じです。
演歌は情を揺さぶりますので、アナハタに影響を与えます。
瞑想家が今の楽曲に晒されると、瞑想が無駄になるほど下位のチャクラを揺さぶりますよ。
なのでAdoさんの「唱」に興奮を感じて、雅楽が退屈だと言うなら修行を真面目にやったほうが良いです^^;
来世は危ないよ。
感覚(眼耳鼻舌身意)に於いて、強い刺激を求めるに従い低位の世界・チャクラに固定され。
希薄、蛋白と感覚の支配から抜けるほど霊性は高くなります。
理由は判りますよね?
物質は粗雑であり、霊性や精神性は微細な領域に認知が働くんだね。
なので、下位の世界やチャクラはより物質的であり、上位の世界やチャクラは精神性や霊性に向かうからね。
ちょっと余談ですがキーボードにファンクションキーというのがあるでしょ?
チャクラはちょうどそれと同じで、音楽自体はヴィシュッダ(喉のチャクラ)が司る領域なんですけども、音楽というカテゴリーにまたロックやブルースがあり、雅楽と言うように霊的なステージが存在します。
ちょうど十界互具(ググってね)の見地と同じです。
六道の発生
次に、六道を言います。
苦悩の激しい順に下位から。と、チャクラと六処の対応ね
- 地獄・・・瞋(ラジャス)・・ムーラダーラ・チャクラ・・鼻
- 餓鬼・・・貪(サットヴァ)・スワディスターナ・・・・・舌
- 動物・・・癡(タマス)・・・マニプラ・・・・・・・・・眼
- 人間・・・貪(サットヴァ)・アナハタ・・・・・・・・・身(触覚)
- 阿修羅・・瞋(ラジャス)・・ヴィシュッダ・・・・・・・耳
- 天界・・・癡(タマス)・・・アージュニャー・・・・・・意
となります。
六道を2分して見る 三善趣 三悪趣
ではこれを三善趣と三悪趣に分類すると
- 三善趣・・・天界、阿修羅、人間
- 三悪趣・・・地獄、餓鬼、動物
逆転の現象が起きるわけは?
では例えば、ペットの動物よりも悲惨で不幸な人間がいたとすると・・・
動物よりも不幸な人
心のカルマの要素が六道を決定する最大の要因ですから、
情の働き(情を行動原理、最大の価値観として人生を多く過ごすと形成される)のカルマによって人間界となり、苦悩が多いのは、功徳が無く、悪業がより大きい場合となります。
一方、人よりも幸福な餓鬼や動物がいる
一方、その反対で人よりも幸福な動物がいたとしたら、
無知(楽しみを最大の価値観として生きた場合)のカルマによって、動物となり、ほぼ悪業を積まず、他の魂に安らぎを与えた場合となります。
弱肉強食では無く、食べ物はペットフード。
嘘も悪口も陰口も言わない。
ただ主人に忠実に生きているので悪業を成さず、主人に安らぎを与えるなら功徳しか積んでいません。
もう、このペットとわたしたちの死後は確実に逆転するでしょう^^;
一度動物に転落するとその後500生は動物を繰り返す
動物と言うのは、その本質が弱肉強食の恐怖で構成されています。
自分が食料になるか、食料が得られず飢える。ということですね。
なので、水中の生物やサバンナなどの弱肉強食の世界に生まれると、功徳を積む機会は無いが、他を殺して食べるという悪業をつむ、と言う生き方しかありません。
なので、一度、弱肉強食の世界の住人となった場合、上の世界に上がるには、悪業を落とすしかありません。ゆえに「動物転生は約500生連続する」とされています。
バランス
重要な概念を提出しておきましょう(^^)
善業、悪業はバランスである
どう言う意味でしょうか?
それは、全く善業がない場合、それが膨大に見えるほど悪業を落とせば良い。と
平たく言えば、不自由をただひたすら耐えるということですね。
(ああ、それでブッダは頭陀行をやらせたのか?)と気づいたら、あなたは賢い!
解脱に導く偉大な師は弟子をいびる(本当の愛)
これにより、少ない功徳の修行者でも成就が起こるんです。
最初から大きな功徳を持ってれば、尚更です。
優れた師がいた場合、弟子を徹底的にイジメます。
いじめ抜きますよ^^;
この時、ブッダへの信仰や師に対する帰依が薄いと
(なんだ、あのヤロウは!ちっとも修行させずに意地悪ばかりしやがって)
と、なります。
短期で弟子を成就に導く 正受、マルパ、ブッダ
その実例は、カギュッ派の修行で見ることができますし、白隠の師の正受老人が白隠を死の直前まで追い込んでいます。
弟子を極限まで追い込んでも、逃げ出すか、自殺するかを神通で見抜けないと師匠の資格はありません。
菩提心と完璧な六神通を備えていないとそれは不可能です。
わたしは全く出来ません^^;
ミラレパは多くの親族を殺害したため、この悪業を落とすために、
マルパによって死の直前に何度も追い込まれ成就します。
ブッダとアングリマーラ
また、ブッダは連続殺人鬼であったアングリマーラを成就させるために、徹底的にいじめ抜きました。
あのね、カルマを「叩いたら、叩き返されるだけ」「バカと言ったら、バカと言われるだけのこと」
と考えていたとしたら、もうとんでもない誤解してます^^;
「浮気したらされるだけの事」とかね。
もう全然^^;
ブッダに「第二の矢を受けない」と言うのがあります。
何のことかと?
悪業の影響は過去のカルマの現象化だけでは無いと言うことです。
- 実際の苦悩
- 転生の要因
瞑想修行しても、やはり第一の矢は還ります。
しかし、真理の修行者は、慈悲喜捨の捨によって、第一の矢で終わり。
一方、凡夫はそれが因となり新たなカルマを生じさせます。
だから、輪廻は終わりません。
たとえば修行者は怪我してもそれを業の還元として受け、(わたしの地獄のカルマが一つ落ちたんだ、これは自分にとって良きことだ)と考える訓練が出来てるのね。
しかし(あの人のせいでわたしは・・・)と恨むとこれではカルマは消えません。
ねえ、わたしがデマカセを言ってると思ったら、どうか「大般涅槃経」のブッダの入滅のシーンを読んで下さい。
最後の弟子、鍛冶工のチュンダの供養によってブッダは激しい下痢を起こして死んでしまう。
しかしその際、ブッダは
「アーナンダよ、わたしはチュンダの供養した食によって、この苦悩の集積である肉体を離れるチャンスを得た。チュンダはわたしに福をもたらしたのだ。わたしにとってチュンダは最高の供養をしてくれたと、彼は大いなる功徳を積んだのだと伝えよ」
くそうチュンダの野郎、腐った食べ物なんかよこしやがって・・・死ぬやんけ、悔しい!と、思ったらまた転生します。
カルマの解消とはとりも直さず解脱を求めること
カルマ解消と事もなげに言う人がいますが、カルマの解消というのは、言い方を変えると解脱することなのです。
んー、よく解るように言えば、ナーディやチャクラにカルマが蓄積するのね。
ねえ、ヨーガや瞑想修行でチャクラが活性化するとか、ナーディが浄化されると言うのはみんな聞いたことあると思うんですね。
判ります?
だから解脱を目指して修行することがカルマの浄化や解消であり、安易にカルマの解消や浄化が起こるような僥倖など無いと言うことです。
宝石に依ったりね、ヒーリングしてもらったりね、惑星の配置で浄化が起きるとかね。
吉方に移動するとか、護摩木に願掛けするとか
そんなんでカルマに変容が起こるなら誰も苦労しません。
もしですよ、そのいずれかの方法論によって、その人物の性格や行動様式、知性の向上、言葉つかいなどが明らかに変化したとしたら、それは効果有ったと考えていいです。
その人のカルマに変容が起きたの。
次元上昇と言うのも、明らかに判る変容が伴います。
しかし、常に僥倖を頼むとか、娯楽好きだとか、人を嫌う、恨みやすい、憎むが変わらないとしたら、施術する方も受ける方もスピリチュアルかオカルト式の思考しかしない人と申せます。
あのね、不幸のどん底で、何十年と死を見つめ続けていた人がよく悟ります。
それは先程言ったように、苦悩を耐え、悪業が落ちきったので上向したと考えてください。
しかし、スピリチュアル系の方はとにかく
「なんでも願いが叶うようになった」と言うし、そういうことに価値を見出そうとします。
もう、それがすでに貪りの業を心で積んでます。
事業で成功する人にも、幼少時の苦悩の連続があります。
悪業が断滅され、バランスが善業に傾いた結果、吉事が起きたの。
エックハルト・トールさんとかそうでしょ。
ネドじゅん先生やまっすーさんの本見ても納得されると思いますよ。
修行者のプライドと言うか、矜持ね。
楽を自ら求めないと。
楽とは願望成就や称賛や大きな収入とか尊崇の念を得るようなことね。
ご修行頑張ってね(^^)