真理相応

サマディ品

 

修行者よ、君たちはサマディ(正定)を繰り返し修習しなさい。

サマディを修習すれば精通を得るのである。

何の精通であろうか?

 

それは苦しみの真理における精通。

苦しみの生起に関する真理の精通。

苦しみの滅尽に関する真理の精通。

苦しみの滅尽に至る方法論に関する真理の精通である。

 

したがって君たちはサマディを修習するがよい

 

 

仏教の真の狙いはこの四聖諦を得て、そして無明を破壊し涅槃に安らぐことです。

その為にはサマディに入ることが要点になります。

 

サマディは「4つの静慮(四禅)」を指します。

 

 

 

 

 

 

 

  ヴィパッサナー(四念処の会得)によってサマディに入る

 

八正道の7と8のことを指します。

 

正念(四念処)→正定(サマディ)ですね。

 

なので、お釈迦様の本来の意図は弟子に四聖諦を得させようとして、八正道を説いたと知れます。

自分の体験を弟子にも与えたいと。

現状、今の仏教理解は、大乗経典の頻出によって情報がごちゃごちゃになったので、本来のお釈迦様の狙いが完全に失われてしまったと言えます。

 

それは禅が説くような、あるいは仏教の常識とされるような名色が停止する「悟り」ではありません。

 

さらに、小乗や大乗の意味も酷い誤謬が常識として通用しています。

 

ましてや、新興宗教の教祖が言うような、八正道を8つの反省の視点という説は迷妄の極みと言えます。

 

わたしが酷いなあと痛感するのは、現役の僧侶がお釈迦様の教えを全く信じていない。

宗祖や先達の間違った解釈をそのままずーっと千年、八百年と伝承していることです。

 

 

 

前にわたしはアナパーナ・サチ(ブッダの説いた呼吸法)を解説しました。

この大念処経ももうすぐ終了ですが・・・・気が付かれましたか皆様?

 

アナパーナサチにもこの瞑想のテキストにも、どこにも

  • サマタ瞑想
  • ヴィパッサナー瞑想

と言う概念がブッダによって説かれましたでしょうか?

 

 

 

そして瞑想の達人とされるブッダによる瞑想とは、この「四念処観」と「四梵住」です。

四念処の派生に五蘊無我とかありますよ。

 

 

 

 

 

 

 

  五蘊無我の瞑想

 

「五蘊は思い通りにならない」と納得し、手離す狙いで行う

 

・・・・肉体に「浮け」とか「20代の若さを永遠に保て」「痩せよ」「スカーレットヨハンソンに変われ!」と念じても、そう成らないのは、自分の意志よりも物理法則、生理的原則が優先するからだ。つまり、真の意味でわたしのものではないのだ。

 

・・・・心地よい感受のみ、感じていたいと願っても無理

 

・・・・わたしは思い違いや誤解を犯すことが避けられない場合がある。正しく無いイメージが沸き起こるからである。

 

・・・・意志が達成されないと苦しむ。

 

・・・「そうで無ければならない」という観念や常識へのこだわりはわたしを苦しめる

 

その結果、このような結論に至ります。

わたしたちを構成する5つの要素全てが、実は意のままに成るものではない。

それは本質的にわたしのものでは無いからである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  苦悩は五蘊への囚われ度合いから生じる

 

社会生活における様々な苦悩も全て五蓋に対する囚われの度合いで生じます。

  1. 絶対にこうで無ければならない!
  2. こうで無ければならないけど、それは理想論であり、必ずしも自分の思い通りにはならない
  3. あいつ絶対に許せない
  4. まあ、色んな人がいて当然だ。たまたまわたしは変なのと関わったのだ

 

ねえ、「絶対に・・・で無ければならない!」という囚われが強固であるほど、理想と現実のギャップが存在しますでしょ?

 

無常のものに絶対は無いのだから、強固に囚われを起こしては対象が変化を起こしたた時、自分が苦しむのは必然だと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  正念

 

 

お釈迦様の説く「瞑想」の本質は

「一定の命題をずっと繰り返す」事を言います。

これを修習と呼びます

これがsati(念)のことね

 

 

 

八正道の7と8

 

7.正念・・・・命題を繰り返す

8.正定・・・・正念をずっとやっているとある瞬間、トランス(意識の変容状態)に意識がチェンジ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  観照

 

ヴィパッサナーは観照という意味です。

これは評価や解析をしないで、ただ観るだけと。

 

観察も似たような意味ですが、その場合分析や評価などの識別を行っているのね。

もっと言うと、五蘊の識別が動いた状態で観るのが観察です。

(大っきいな)とか、(赤いなあ)とか、内言(自動思考)が動いているのが、解析や識別の状態ね。

 

 

 

 

 

  観照の効果は集中の深さによって決まる

 

四念処観は間違いなくヴィパッサナーです。

それは「観」という字がついていることからも明白である。と

 

 

そしてヴィパッサナーの効果をより得るには、ふかい集中力が先に必要になるのね。

なので、ヴィパッサナー(観照力)はサマタ(集中力)を背景として成り立つと。

 

つまりヴィパッサナーとサマタは両立しています。

 

 

以下の4つに於いて、無常・苦・無我を観照することが四念処のメソッド

  1. ・・・肉体には内蔵があり、糞や尿、血液、リンパ液、アンモニアの作用で実は不浄だ
  2. ・・・感覚は思い通りにならない。衰えや不快な認知があり得る
  3. ・・・心は寸暇もじっとしていない。猿が枝から枝に飛び移るように変化するものである
  4. ・・・無常世界のどこにも変化から免れるものは存在しない。宇宙やダイアでさえ巨大な時間を経れば消滅してしまう。だとしたらわたしの存在など無いにも等しい

 

 

 

そしていい?

よっく聞いて下さいよ(^^)

 

サマタ(集中力)を先に練習しますよね?順序としてね。

なので先に来るのが「悟り」です。

  • サマタ・・・・・・・・悟り
  • ヴィパッサナー・・・・慧解脱

 

その後、正しくヴィパッサナーを修習すると、正定(4つの静慮)がおこり3つの明智により解脱すると。

 

 

 

 

 

 

 

  悟りはお釈迦様がわざわざ説くようなステージではない

 

だからね、サマタ(集中)というのは、古今東西のあらゆる時と場所で行われていました。

特に古代はTVもスマホもネットもアニメもコミックも無いでしょう?

日長退屈であったと。

 

煩悩の誘惑もすくないので雑念が沸き起こりにくかった、何かに一点集中という現象はどこでも見られたと思います。

 

わたしの母はクセなのか、よく一点集中(トラータカ)を起こす人で、突如トランスに入りました。

10分ほど視点が固定され、じっとしたまま身動きしないんです。

わたしも遺伝した(^^)

 

 

何かを見つめて集中するというシチュエーションは日常茶飯の出来事です。

なので悟りを起こす人はあちらこちらに登場したと考えられます。

 

莊子やシャンカラのような人間ね。

日本で茶道とか弓道とか剣道と言うものは、悟りを起こす要素が含まれています。

 

それは所定の作法をひたすら無心で繰り返す事により、本来の集中力が徐々に戻ってくるからね。

チャルーン・サティなどそうでしょ?

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  悟りと心解脱

 

はい、悟りと心解脱はちょっと違うので注意してね。

心解脱の入口に当たるのが「悟り」ですよ。

 

これは受想行識が停止するため、受想行識から起こる五蓋が停止するのね。

五蓋とは瞑想を阻害する要因で、この対処を瞑想の前に行わねば4つの静慮は起きませんよ。

  1. 貪欲蓋・・・・・・貪りから生じる心の動き
  2. 瞋恚蓋・・・・・・怒りから生じる心の働き
  3. 掉挙悪作蓋・・・・興奮と躁
  4. 惛沈睡眠蓋・・・・眠気と鬱
  5. 疑蓋・・・・・・・真理に対する疑惑

で、この五蓋が停止したのを一般的に「悟り」と呼んでいます。

(なので、悟っただけでは阿羅漢にも至っていません)

 

 

五蓋と煩悩は根が同一ですよ。

ここでは同じと考えていいよ。

 

 

重要なことは、一時的に停止しただけであり、煩悩が消滅した訳ではありません。

いつでも条件が整えば、再び元に戻るの。

 

これは慧解脱によって無明を破壊しないと煩悩の消滅はありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  渇愛の停止

 

五蘊無我で、「わたしは居ない」と気が付きますね?

すると貪瞋癡の主体が消えますので、欲望も停止すると。

 

これを渇愛の停止と言います。

 

 

が、無明はまだありますので、条件が生起したらまたムクムクと我が出てくるのね。

 

それは人によって様々なんだけど、生きているうちにそうなる場合や、死後、悟った人は無色界に入り、そこで非常に長い時間を経過してから、また我が生起して貪瞋癡に巻き込まれる。というように色んなケースが存在します。

 

いい?

 

これが「不還」の意味なの。

 

 

 

 

 

 

  不還

 

不還でもう輪廻に帰らないのなら良いじゃないか?

それを涅槃と捉えて何がイケないのか?

 

 

 

そう思ったんじゃありませんか?

 

 

 

不還は欲界に戻らないという意味なんだけど、まだ無常世界の無色界に移行しただけなの。

そこは安らぎは有るけれども、「無」が有るの。

無があると言う言い方は変だけど、「無」しか無いのね。

 

なので、坐禅しかしないような場合で得る「悟り」は無が真理という認知になります。

 

 

 

そして先にも言ったように、条件次第でせっかく悟ったのに、また我が生起します。

これはカルマにより、すぐそうなる人と長大な時間、無色界に留まる人がいます。

 

 

 

 

 

 

 

  独力による修行完成者  タターガタ

 

お釈迦様ももちろん、ここに辿り着いたはずなのに、更に修行をお続けになって如来として完成なさったの。如来は(導き無しで)修行完成した者という意味ですよ。

 

修行してないのに「わたしは修行完成者である」と言ってる人も見えますが・・・・

言うのは自由です(^^)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  雑念の停止

 

五蓋が停止すると瞑想が楽ちんなのよ。

雑念が起きないからね。

サマディに容易に入ることが可能になるのね。

 

 

これは、お釈迦様はマインドフルネスで行けるぞと言っています。

 

 

つまり、本来すごい集中力をわたしたちは持っているのだけれども、五蘊が雑念を生じさせて本来の集中力を阻害させていると考えて下さい。

 

 

あのね、だから四念処を効率よく行い、最大のメリットを得ようと欲するならば、先に集中の練習をしろ。と、言うことなのね、そんでそれを独立させたのがサマタ瞑想と呼ばれるテクニックで有ったと。

 

それをお釈迦様は「正念正知」と名付けています。

 

 

 

 

 

 

 

  大乗仏教を説く人がやらかす誤謬

 

それらを全て達成したと仮定してね。

最終、わたしたちはどう有らねばならないのか?と

 

見方を変えると・・・

お釈迦様はわたしたちに何を期待して真理を説かれたか?と、言うことですね。

サマディを修習し、宿命智、天眼智、漏尽智を経験し、四聖諦得て涅槃に戻る。ということね。

 

でも、その事が2500年後の仏教は誰もそれを端的に言えない状態になってしまいました。

仏教が説くゴールが、情報が多すぎてどれだか分からなくなったんです。

 

どうかしたら、そんなのは小乗だと。

 

 

 

澤木興道さんの語録

 

愚かな人々によって「利己的な教え」だとして捨てられたのね。

 

 

日本の大乗はここのところが大きな過ちなんだけれど。

真実はわたしたちは今この瞬間も涅槃にいます。

ここを大乗は「元々ホトケである」と言っています。

 

そして、涅槃に戻ろうと欲するならば、誤って生じた観念やカルマなどが強固にこびりついているため修行してこれを落とさねば成りません。これだけはやむを得ません。

 

 

 

 

 

 

  元々ホトケだから、それを自覚するだけでいい?

 

しかし、元々ホトケであり、それを自覚すればいいだけなのだから浄化は不要だと言うのは、全くの暴論です。

これを「本覚思想」と日本では呼んでいます。

 

 

 

どゆことかと言うとね、あなたの愛する人の命が誰かの犯罪行為によって奪われたと、そう想定してね。

あなたの大切な人の命を奪われてあなたはとても悲しい、悔しいと。

 

ところが犯罪行為を犯した当の人物は「全ては元々空なのだから、わたしには何の罪も存在しない。死んだ人も、死なせたものも居ないのだ」と言って信じているとね。

 

でも、この人はやはり自分が犯した罪で逮捕、起訴、収監は免れません。

 

つまり、この人が「自分には何の罪も無い」と信じているだけであり、現実社会はこの人に罪の精算をせまり、この人の自由を奪い、人殺しのレッテルを貼り、その後の人生の活動範囲も狭い範囲に留まり不自由の状態を強要するでしょう。

 

社会復帰した後でも(自分には何の罪もない)と信じていたら危険人物と言わざるを得ません。

わたしたちは、この人と今後同じ空間に暮らして行くことは避けたいと願います。

 

 

もっと単純に言えば、人から借金をしておいて、都合が悪くなってから「空」だ。あなたからの借金は無いと云うようなものです。

 

しかし、借金してまで自分が欲しいと欲望は無とは考えません。

 

 

 

それと同じで、煩悩の凡夫のまんまであり、カルマも精算していない欲望もそのまま、なのに自分で勝手にわたしはブッダだと妄想する

 

あるいは妄想しろと薦める。これが日本の大乗、即ち本覚思想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  涅槃の捉え方の違い

 

あ、そうだ。

涅槃の原語ニルヴァーナ(梵)ニッパーナ(パーリ)は厳密に言えば、仏教内では2義あります。

  • 火が掻き消えた状態を指す場合、これは煩悩の消滅の状態の比喩であり。
  • 更に他方、輪廻からの離脱を表すモークシャ(解脱)を指す場合ね。
 

インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱(モークシャ मोक्ष mokṣa または ムクティ मुक्ति mukti)の別名である[4][5]。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張している[6][7]

 

ウィキペディア「涅槃」

 

これは例えば、SRKWブッダさんは、現世における安らぎを以って「涅槃」を称されます。

上の「火が掻き消えた状態を指す場合」を指します。禅もこの考えです。

 

 

しかし、お釈迦様の考えではパリ・ニッパーナ(完全涅槃)が目的の涅槃です。

マハーパリニッパーナ(大完全涅槃)を大般涅槃と言います。

 

どうしてそう言えるかと言うと、最初期のウダーナヴァルガ(感嘆の偈)にお釈迦様によって明言されているんです。

 

ウダーナ 「涅槃」

太陽もない、月もない。

既に有ったものが存在せず、空間も無い。

識別作用も無く一切が存在しない世界をわたしは良く知っている。

来ることも無く、行くこともなく、生ずることもなく死没することもない。

住して留まることもなく、何かに依存、依拠することもない。

水もなく、大地もなく、火も風も侵入しないところ。

光も無く、暗黒も存在せず。

聖者は形からも形無きものからも、一切から離脱し安らぐ。

 

で、ここに入るモードに、これはステージの差ですが。

  1. 少般涅槃・・・死後、残った煩悩を減少させて涅槃に入る
  2. 中般涅槃・・・死後、中有から涅槃に入る
  3. 有行般涅槃・・サンスカーラを残した状態で、死後サンスカーラを消滅させる
  4. 無行般涅槃・・サンスカーラは無いけども、残したカルマの果報を受けつつ、涅槃に入る
  5. 大般涅槃・・・お釈迦様がやった涅槃

禅や、SRKWブッダさんの説ではこれらのモードが存在する説明がつきません。

解脱と悟りの違いですわね、これも。

 

大中少と偶然揃ってしまいましたが、大きさの比較は関係ありません。

 

 

 

 

 

 

 

  宇宙の入れ物は?

 

今の、宇宙論ではビッグバンがどこかで起こり、それが現在も進行中であるとされています。

ビッグバンは今から凡そ、

138.2億年(13.82 × 109年)前と計算されている

 

なのだそうです。

 

何がきっかけか、超スケールの大爆発がおこり、今もその爆発の余力で宇宙空間がどんどん広がっている最中なのだと。

 

超高密度、超高温の何かが大爆発を起こして、そこで灰や爆発のエネルギーが拡散します。

その灰がそれぞれ条件の温度差とか、密度の違いで物質の差が出来ます。

すいへーりーべぼくのふね・・・

 

これらを素材として、組み合わさって生命も星も生まれたと。

 

 

ある時、それが収縮に向かうと想定されていて、それがこの宇宙の終焉に当たるそうです。

 

 

 

・・・するとよ、ちょっと不思議な事があります。

  • そのビッグバンは最初、どこで有ったの?爆発の以前はそこは何なの?
  • 次にね、宇宙がどんどん広がっているって、じゃその外側は何なの?

 

宇宙が広がるなら、その受容としての場が必要でしょ?

だったらそれは宇宙と呼ばないの?

 

どんどんそれが初めの大爆発で変容したのが、わたしたちの宇宙なのね。

 

 

まあ、それを拙速に涅槃だと言う気はありませんが、別の形態の存在は何かあっても不思議じゃないよ。と云うことです。