ダラダラ長文になったので分けまーす(^^)
期待と誤謬と錯覚と
えと、先だってこんな文言を見つけたので、ちょうど良い材料だと考え解説したいと。
悟ったと発言する方が
「わたしは悟った。その時、仏陀が自分に微笑み掛けてた」のだと。
と仰る方が見えたのですが、前後の文章から、これは誤った悟りのイメージを抱いており、それによって願望が幻を体験させたようです。
感情や情緒は動かなくなるので、悟った人は
感情論的な話や、エモーショナルな表現は出来なくなります。
なので、感情や情緒を共有しようと働きかける人は、御本人が「わたしは悟っている」と宣言なさっていても、それは悟りの状態を知らないで(多分、これが悟りなんだ)と誤解を犯しています。
それが判ると、真偽の見分けが出来ますでしょう?
例えば、悟ったと言いながら、自分が面白いと思ったドラマやストーリーの紹介とか、美味しそうなスイーツのスナップショットなどを上げていたら、ただ妄想をしているか、それを利用して注目を浴びたい欲望の人なの。お金儲けが目的とかね。
「悟りとはどんなだろうと?」精一杯想像して、この人なりのこの様なイメージが出てきたと考えられます。
ナーマ(心の動き)の停止
そうではなく、「悟り」と言うのは受想行識という心の働きが全て停止します。
これは言い換えると、人として経験した過去の一切の記憶や、判断の材料や良し悪し。
そう云うもの一切が止まります。
感情(感情の生起は感受作用に含まれます)も停止します。
慧能は悟って受想行識が全て停止した
例えば素晴らしい景色やスイーツなどを感受し、その瞬間にだけ
(ああ、素晴らしいな)
(美味しいな)
瞬間に生じ、その瞬間に消滅します。
定着することは絶対にありません。それは、後にこれが苦楽の因となるから。
「いや、わたしは現在、常にそうだよ」
と仰るかも知れません。
ところがそれは錯覚で、これは記憶として知らないうちに定着し、その次のリアクションの材料になります。
これが規定となり、(ああ、あれは良いよ)と思ったり(あれは駄目だ)と、先の経験に基づき好悪の判断を行います。識別の働きですね。
これが人間です。
ネドじゅん先生が言う自動思考ね。自動思考が生じる前提条件となっています。
定着した経験が自動思考を生み出す元、ということね。
報酬系ホルモンの刺激による興奮
ところが悟った人にはそれがありません。
これを囚われからの離脱と言います。
何が生じようと、感情や判断が生じないの。苦楽も消滅するがゆえに「安らぎ」の現出なの。
普通人は応援するスポーツチームや、将棋の藤井聡太さんや大谷翔平さんが好きで、彼らが対戦相手と勝負し、その時勝ちを得ると「やったー!」と興奮が起きます。
すると、相対的な感情も同時に生まれますので、自己と好きな対象との分かちがたい一体感が生じ、自分の気に入った事柄を否定されようものなら、
(わたしを否定した、わたしを貶した!)
という嫌悪が生起し、これと戦う感情がたち上がりますよ。
別に、自分が批判された訳では無くとも、自分が非難されたと感じます。
SNSにはそういう人が満ちていますでしょ?
例としてわたしは
以前クリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」と言う作品に世間とは異なる評価をしました。
「科学考証が優れていると評判だけど、宇宙船や人がブラックホールに入り、時間を遡り、宇宙に出発する直前の、自分の部屋に小人として出現する事のどこが正しい科学考証なのか?
太陽のような質量の固体物質が自分の重力で角砂糖ほどの体積に押しつぶされるというのがブラックホールだ。光でさえ、ブラックホールの傍では吸い込まれるほどの重力である。
そんな超重力に吸い込まれ、人が生存可能な訳は無い。
更に、自分の部屋に還るのも理解不能だし、重力の秘密を科学式で表し、これをモールス信号に変え、念の力でそれを壊れた時計の秒針で振動させ伝達する。これも理解不能。
もっと仰天なのは、これを見た自分の娘が「あ、パパからのモールス信号だ!」と、判ったと言うのは、もはや浪花節かファンタジーと呼ぶべきだろう。
と書いたところ、わたしは日本全国の「インターステラーで泣いた」というファンからものすごく大量の誹謗中傷を受けました。なお、わたしは「ダンケルク」以外のクリストファー・ノーラン監督作品は全て鑑賞していますし、SFファンです。主演のマシュー・マコノヒーさんも優秀な役者さんと思ってます。
- お前はSFを見たことが無いのだろう
- この映画はみんなが絶賛している、お前は自分の感性が鈍いと気づいていない
- この映画がSF考証で高い評価を得ているのを知らんのか?
- もう、SF映画を見るな
- 四んでまえ
- これは、何で起こるかと言うと物語による報酬系ホルモンの分泌で感動を感じた。
- インターステラーという作品と自分が分かちがたく結びついた。
- 同じ感情を持った人々との間に、連帯感による共通世界に自分を置いた。
そこで、インターステラーを悪く言うものは敵対者であり、苛立ちを起こす者は叩き潰して消し去りたいと。
好きと言う感情と共に、嫌悪という感情も作り上げます。エモーショナルに振り回されているんだけど、それが幸せと感じているので気が付かないのね、輪廻を繰り返す要因を持つ人はね。
これが相対の世界の特質です。
もし、映画は見ないという人が、わたしのレビューを読んでも(ふううん、そうなんだ)と反応が起きるだけなんだね。
これが二項対立が生じるこの世界なの。
苦と楽が延々と繰り返し続きます。
大好きと言う感情の背後で、反対の嫌いという感情も生起します。
しかし、普通の人はそれに気が付きません。
好きも嫌いも捨てた人は悟りが近いです。
鎖が長い事を幸福と感じる錯覚
別の喩えで言えば、鎖で繋がれたペットみたいなものなの。
で、鎖が相対的に長いだけなのに「わたしは自由だ、幸せだ」と感じ、短いと苦悩を感受しています。
悟りや解脱とは鎖を切ったという事を意味します。
これらは興奮を誘発する対象物が必要な、いわば相対的なエンドルフィンやドーパミンの解放などによってもたらされる興奮であり、それが一時的に快感だとしても、決して幸福ではありません。
- 「幸せになるために、わたしにもっとドーパミンくれよー」と。
- 「沢山沢山、継続的にエンドルフィンをよこしてくれえ」と。
依存が生じており、依存物が供給されている時は、幸福だと感じています。
人類のほぼ99%はこんなです。
しかし対象物はいつか途絶えるか、人生のどこかで供給が断たれるのはやむを得ません。
何者にも依存しない幸福。
それが本当の安らぎであり、幸福なのね。
これが悟った人です。
心は実態がない
そんで、心の無実体を実感することが出来たらそれが悟りです
「應無所住而生其心」・・・心は実態が無いのに、どうしてこうもわたしたちを縛るのか?
それを獲得するもっとも身近で取り組みやすい方法は、正念正知(マインドフルネス)ね。
下の書籍は実践について分かりやすく紹介されています。
SRKWブッダさんの悟り
例えばSRKWブッダさんは、その著書で
ニルバーナにおいては、次のようなことが日常に体現される。
(SRKWブッダさんは、悟り=ニルバーナと考えているようです)
- 不意にやって来る衝撃音や怒声にまったく驚かない
- 顔が触れ合うほどの至近距離に他人が近づいても嫌と感じない。
- 他人の行為に影響を受けない
- 悪意を感じない
- あらゆる味わいが余韻を残さず、同時に嫌な味も無い(味は正確に判っている)
その他、ドキッとしない、ヒヤッとしない、ぞわっとしない。
他人が全て親族やわが子のように見える。
と、表現なさっています。
受想行識が停止されておられます。これが悟った状態です。
なお、確かに悟られていますがこれが即、無明の破壊後に起こるニルバーナではありません。
SRKWブッダさんは、頓悟による啓発に依るので具体的な修行法は説きません。
公案や善知識を発するスタンスの方です。
そして、先の微笑む仏陀の存在を感じたとしたら、それは受想行識の「想」の動きです。
もっとも深い悟りでは能動的な働きも起きない
究極的に悟ったらこんなブログも書きません。
人里に降りて来ないヒマラヤの聖者がいますが、自分は山から降りて来ないのはそういう訳です。
(小乗と言うなら、それが小乗ですね)
幻影の世界で展開される出来事は全て幻なので、何が起きようが(世界の終わりや残虐な戦争でも)関心が起きません。
大体、そんな事心配してりゃ、今頃お釈迦様もおちおち涅槃に入ってはおられないでしょう。
四神足 大般涅槃経から
当初、四神足を完成させているので・・・
「仏道修行したいと多くの魂が望むなら、自分は寿命を延長してこの世界に留ってもいいぞ」
とブッダは考え、そうアーナンダに3度告げた
しかし、それを疎ましいと感じる魂の方が勝ったので、
ブッダは寿命のままで涅槃に去る決心を固めた。
四神足とは、四念処の一種と考えて差し支えありません。四念処の拡張段階と言えます。
なお、その時ブッダに世界に留まってください。と懇願しなかったため世尊は
この世を捨てる意志を固めたのだが・・・
「この責任をどうしてくれるだアーナンダめ!」
と今に至るまで多くの仏教徒から非難されているアーナンダです^^;
この事を知る日本の仏教徒は少ないのですが
ただ仏教徒は、仏教の大慈大悲の修行が残っているので菩薩行の修行として動くのね。
お釈迦様に対する恩と、その感謝として弟子の義務を果たしたいと。
また、同じように苦悩している人は自分なので、黙って見過ごせないと思う人は菩薩です。