決めた。無心になろう!

 

禅の本を読んで、よし決めた、わたしも今日から「無心の境地」を得ようと。

 

初めの頃、白隠禅師は文字通り「無だ、無だ、趙州無~、無~無~・・・」ずっとやってたそうです。

 

趙州狗子(趙州無字)の公案に参究してたんですね。

趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(わんこ)に還って仏性有ありや、無し也」。

趙州云いわく、「無」。

ある時、弟子の一人の僧が趙州に訊ねた。

「犬にも仏性がありますか?それともありませんか?」

趙州は応えた「無」。

 

 

仏性有るでしょう(^^)

 

ただ、趙州の返答は、質問を投げかけた弟子に公案を与える狙いで

発したものなので、その弟子以外には用をなしません。

 

 

 

 

  何のための無か? どうして無を求めるか

 

ところで禅が何故、無を求めるのか?

何故、最終のゴールが無なのか?

 

えーと、どちらから先に出せば解りやすいかな^^;

 

 

無門関 第一則 趙州無字

 

禅を参究するには、君たちは祖師の設けた関所を通らなければならぬ。
妙悟を得るには、分別心(観念)を残らず捨てきらなければならない。
祖師の関を通らず、分別心を断ち切ることのできない者は、草木に宿る正体のない化物のようである。
まあ、諸君言ってみよ、祖師の関とは何か。
ただこの一個の「無」字...これが禅の究極の一関である。
故にこれを「禅の門なき関門」と名付ける。
この関門を透過する者は、親しく趙州に相見えるばかりでなく、過去の代々の祖師たちと手に手をとり面々相対し、彼等と眉毛を交えて同一の眼で見、同じ耳で聞くことができるであろう。
なんと痛快なことではないか。
この関を透過しようとする者はないか。
360の骨節と、84000の毛孔をあげて、自己の全身を1個の大疑団として、ただこの無字になりきれ。
昼も夜もひたすら参究せよ。

虚無の無や、有無二元の無だなどと誤解してはならない。
それは真赤に熱した鉄の丸を呑み込んだようなものである。
吐き出そうにも吐き出すことはできない。

これまで積み重ねてきた 二元的知識分別を払い尽くし 、さらに参究を続けよ。
やがてその修行の機が熟する時、(内だ外だというような)一切の対立はおのずから一枚となるであろう。
この時、彼はすばらしい夢を見た唖子のようなもので、ただ自分だけが身をもって知っているだけで、言いたくとも他人にそれを語れないようなものだ。
突如として関を打ち破れば、天を驚かし、地を振動させるであろう。
それはちょうど、関羽将軍の太刀を自分の手に奪い取ったようなものである。
仏に会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺すものとなろう。

生死の際に臨んで真に自由自在、どこにどう生まれようと、遊戯三昧の真の生を楽しむであろう。
さて、そこでどのように工夫したらよいのか。
自己の気力の全てを尽くして、ただ「無」になりきれ。
なりきり続けてやむことなく、ためらうことがなければ、見よ、灯明に火がともれば、暗黒はたちまち光明となる。


(うた)って云う
狗子の仏性
釈迦の正見をまるごと見せた
有無の二見にこだわると
直ちに身命を失うぞ

 

 

白隠は文字通りこれを実践したわけ。

自己の全身を1個の大疑団として、ただこの無字になりきれ。
昼も夜もひたすら参究せよ。

これはつまり集中の極限を目指せと言っているのね。

 

 

でさ、例えばそれが成就した人が道元とか、SRKWブッダさんとか、ネドじゅん先生とかなのよ。

ねえ、道元はそれを「心身脱落した」と言った。

SRKWブッダさんは「名色が停止した」と言ってます。

 

ネドじゅん先生は

 

 

中国禅の六祖、慧能は

 

 

どの様な世の中の出来事に対しても、これらに対し反応しない。

受・想・行・識が停止しているの。

  1. 受・・・眼識が風になびく旗を確認
  2. 想・・・それに纏わる過去の情景が蘇り、
  3. 行・・・個人によって次の展開が起きる(早く帰宅して洗濯物を乾そう・・・など)
  4. 識・・・旗が風になびいているなあ、と識別が動く

 

つまり、何かの現象に際し、これらの心のリアクションが停止したのが「無」の達成であり、これを「悟り」と言っています。

 

 

 

  慧能が悟った方法 頓悟

 

慧能は、街で薪を売ってる最中、すれ違った僧侶が金剛般若経の一節を暗唱していたのが偶然耳に入ったの。

それを聞いたその瞬間に無我を大悟した頓悟の方です。

 

應無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)

 応に住する所無なくしてその 心を生しょうずべし

(見えないのに、心の働きはどこから生じて来るのか?)

 

 

すごい!たったこの一言で大悟するなんて(^^)

(尤も、慧能のエピソードは七祖の荷沢神会が自分のセクトを宣揚するために策略を弄した

作り話の可能性もあります)

 

頓悟の人は意外と沢山いますよ。

 

信じないかも知れませんが、タモリさんの若い時の経験はネドじゅん先生が

「いつもの自分の部屋が輝いて見える」と、同じ事を言っているの。

わたしもその経験はございます^^;

そして不思議に感じて窓の外を見ると、なんだか静けさに包まれていて

(みんな子どもの頃はこうだったな・・・)と思ったんだと言っています。

 

 

黒柳徹子さんが、徹子の部屋でもう何十年来の友人なのに

「(ブラタモリを見ていて)あなたがあんな偉い人だったとは今まで知りませんでした^^;

と言いました。

悟った人は何十年も自分を晒さないなんてザラです。

 

それが無我だもの。

 

慧能も、五祖の弘忍から六祖を継ぐまで、ずっと何年も寺男(雑用担当者)のフリをしていたの。

弘忍以外、誰も慧能がそれほどの高いステージにいるなんて事に気が付かず、

慧能が六祖を継いだと知った時には、慧能を殺害しようと

弟子の多くは慧能の後を追いました。

(な、なんで寺男がこの寺の後継者なんだ!)寝耳に水な訳です。

 

ヤツが受けついだ衣鉢(代を継いだ証明の品)を奪ってしまえ!

 

弘忍はそれを案じていて、慧能を南へ逃がします。そして

「おまえ、逃れたら三年は身を隠せ。六祖だと人に知られるな」と言いました。

更に

「よいか、わしは常にお前とともに居ることを決して忘れるな」

 

 

お坊さんなのに剣呑だな^^;

ステータスシンボルを奪ってどうすんのかな?

 

 

 

 

 

 

 

  善知識

 

SRKWブッダさんも、この方法に依るらしく。これを「善知識(啓発を起こす機縁となる言葉)」と呼び、公案と並び、悟りにとって重要とします。

 

だからSRKWブッダさんは「修行は一切不要」とし、釈迦牟尼も「乳粥を供養したスジャーターが何か釈迦牟尼に善知識を授けたに違いない」と推理なさっています。

 

 

 

「ブッダの一応の推認:釈尊の覚りの真実および大乗仏教の真実」から、P23スジャータ

スジャータという名前は、訳して善生(育ちの善い人)とされているが、これは要するに善知識(=化身)のことであろう。すなわち、スジャータこそが、釈尊に法の句を発した善知識であったとその名前から推認されるものである。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、パーリ仏典全体を通じて、そんなハウツーは殆ど語られていませんし、むしろSRKWブッダさんが否定する修行、八正道を中心とする三昧に至る七科三十七菩提分法やアナパーナサチが説かれています。

 

ご自分が釈迦牟尼となんら違わない(筈である)と、言う前提で仏教を見ているのね。

 

 

 

 

 

 

  禅のゴール

 

以上が禅の目的とするところです。

(昨今のテーラワーダもなんだかここを説いているようです。彼らが言うヴィパッサナー瞑想で到達するのがここなの)

 

 

けして仏教の狙いではありませんよ、注意してね^^;(ここがみんな誤解している箇所ね)

 

 

ここまでいいでしょうか?

今、禅で言う「無」と、それから「悟り」の状態を言いましたよ(^^)

で、それを踏まえて頂いてね。

 

 

でね、悟りたいとか解脱したい!無の状態を得たい!とかね

と言うのはOKなの。邪魔には成りません。

 

これは、喩えて言えば

(わたしは将来、弁護士になるんだ)とか

(将来、総理大臣になるんだ)とか

(大金持ちに成りたい)

ゴールの設定なの。

 

あの・・・

発明王に俺は成る。とかね。

俺は海賊王になる!とかね。

メジャーリーガーに将来成るとかね。

ゴール設定ね。

 

 

  目標設定と手段の混同を起こしていると・・・

 

ところが、悟りや解脱のばあいね。

白隠がやったような

(無、無、趙州曰く無~)

は全然無効です。

と言うか、それは真逆ね、真逆よ。

集中しようとしているのだろうけどもね。抽象的過ぎて無理ゲーです。

 

 

むしろ心は見えないのに、どこからやって来るんだ?と集中するほうが心の無実態に迫る事が容易いんじゃないかな。

ねえ、犬だって輪廻してるから、仏性有るじゃないか?では一体、趙州はどうして無と言ったんだ?

趙州の無の意味は何なのだ?となり、イメージや思考が動きます。

 

 

 

これはゴールの目標設定と方法論を混同していて、上の例で言えば

20年間

(弁護士になるぞ)

(総理大臣になるぞ)

(大金持ちになるぞ)

念じ続けただけで20年後そうなると思い込む様なことね。

 

 

「戦略」と言うか、「現実化までの方法論」を欠いています。

ねえ、20年後に大金持ちになるのなら、

投資でそれを達成するのか?

出版でもしてベストセラー作家で達成するのか。

人気アイドルで達成するのか?

ギャンブルか?

大谷翔平さんのような大リーガーとかね。

新海誠さんや、宮崎駿さんや、庵野秀明さんや、ガンダムを考えた富野由悠季さんのような監督になるとかね。

吾峠呼世晴さんのような「鬼滅の刃」みたいなもの生み出すとかね。

 

 

でしょ?

そのために次に自分が何が得意で、それで一番を目指すとしたら、あと何を学習して身に備えるか?

だよね。

 

 

無我を達成する場合、集中の継続が決めてなんだけど。

(どれでも好きな道をお選びください。何が、飽きても続けられるか?飽きて、そこで止めないか)

  • 公案
  • ヨーガ(タオイズムなどの吐納導引も含みます)や呼吸法の実践
  • マインドフルネス瞑想
  • 茶道や華道
  • 武道

などが方法論としてあります。

 

 

 

  ラスボスである「識別」

 

ねえ、受想行識を止めにゃならん時に、(無だ、無だ、無になるんだ)とやってれば、それはを激しく動かしているんでしょ?

ちょっとでも心が動いたら焦って緊張が生まれませんか?

 

ちょうどダイエットしようと思っている人が「おやつは食事ではないから・・・」と、食事を抜いてスイーツをパクパク食べているようなことなのよ。

「おやつは食事ではない」という誤った観念と、受想行識を激しく動かして「無になろう」と試みるのは同じ構図ですね。

 

どうかしたらラスボスである「識別」も動くよね。

だからそういうアプローチではなくて、自分の手の動きとか、動作や呼吸に集中する方法が良いわけです。

それとか、決められた作法をひたすらただ無心に繰り返すやり方ね。

武道やお稽古ごとなどはそうでしょ?

 

 

悟りの状態が観念(識別)の停止、内言の停止であることを知らないと、その観念が「悟った」と誤謬を犯す事が多いの。主役じゃ無い人が自分こそ主役だと思うようなことね。

 

 

よく聞く

「悟ろうと思う心も邪魔だ」とか

「仏に会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺すものとなろう」

これは識別が動くことを戒めて言われています。

 

 

えと、数年前のことなんだけど、この「(その時の話では自分ではなく仲間がとして)趙州無字で悟った」という方とお話をしたんだけど、彼が言うには「趙州無字の悟りは3日しか持ちませんよ」と言いました。

 

結局この方は禅はやめて、今、ミャンマーの山奥でテーラワーダの出家僧をなさっていらっしゃいます。

 

「修行者列伝」のコー・ヒロさんです。

 

 

 

  識別は左脳のはたらき

 

識別の働きというのは「何でそうなったんだ?」とか「こうすればこうなる筈だ」とか「何でこうならないんだ?」

因果関係が気になる心の働きね。

理由とか納得が欲しいのが「識別」です。

 

まっすーさんやネドじゅん先生はこれを「左脳の働き」とお呼びになっています。

で、これを認知するのは簡単で、あなたの内言(心のおしゃべり)が停止したままになれば、それが悟りで、心のお喋りが止まないなら、まだ悟っていません(^^)

(ちくしょ、あのヤロー)とか。

 

※わたしは内言と呼びますが、認知行動療法では自動思考と呼ぶそうです。

ネドじゅん先生は「自動思考」をお使いです。

 

 

「わたしは悟った」と自称する方は多いけれど、実際「悟りの状態」のことは全くご理解なさっておられませんで、単に自己顕示欲や承認欲求の強い方がそう仰っている現状です^^;

 

 

この識別を停止させるのが「悟り」そのものなのね。

 

それは識別の働きが分別や観念そのもので有るからね。

 

無分別とか莫妄想というのは識別の停止した状態を言っていますよ(^^)

 

 

 

 

 

  救世主

 

余談だけども、「わたしは救世主だ」という人も同じで。

救世主というのは、その特徴として

  1. 無常世界の力学である、カルマの働き(悪業・善業)を説く。
  2. そこから更に、戒と功徳の重要性を説いて、持戒を守らせる。
  3. 功徳を積む生き方をさせる。
  4. 実際に多くの人々を「悟らせる」、「無常世界から解脱させる」
  5. 弟子のカルマを最大受けて死んでゆく

という様な事を行います。

戦争を回避するとか言うのは、政治家の方のおやりになることです。

 

イエス様もお釈迦様も、姦淫や邪淫をするな。暴力を捨てよ。妄語や偽証はするな。

財を施せと言っているでしょ?隣人を愛せとか、慈悲を培えとかね。

 

そしてラストには、イエス様は磔刑で、お釈迦様は激しい下痢で他界されていますよ。

 

わたしも大いに、この可能性はあると考えています

 

 

 

 

 

あの・・・暴力が強くて、いわゆる悪人を「ヒデブっ」て断罪する人は、全然救世主ではありません。そんな思考をしてしまうのは勧善懲悪式のTVや漫画の見過ぎだね^^;

 

わたしたちの溜飲を下げる人。

救世主ではありません(^^)

 

 

 


 

 

  門前の小僧経を読み・・・

 

えーと、またまた余談ですが、

師の愚胝和尚は非二元を達成されたようで、誰に対してもそれを親指一本で「悟り」を表現します。

 

 

 

これをいつも傍から見ていた未熟な弟子が(指一本立てるくらいで悟りなら、もう自分は悟った)と考えたらしく、師の真似をしたところ。

後でそれを知った師が、この小僧さんを呼びました。

話では、師匠がその時、この小僧さんの親指を匕首で切断したそうです。

ホンマかなあ?

 

で、どうも現在、これと同じような事が行われていたのを見ます^^;

 

「それはあなたの観念ですよ」

 

と言ってればもう自分は悟ったんだと思っている方がいらっしゃいます。

おそらくその方の師匠の口癖なのでしょう。

 

 

ところが、この師匠の方も悟っていない方なので、そのまた師匠の口癖だったのでしょう。

あるいは本で読んだのか?

 

 

呼ばれもしないのに、あちこちの呟きをサーチしては

「それはあなたの観念じゃありませんか?そんなものはあなたの頭の中にあるだけですよ」と言って回っている人がいるのね。

自分と同じように(それはあなたの観念じゃない?)と言うのが伝染したら、その人も自分と同じように悟ると思ってやっていらっしゃるようです。

 

長く参禅してるそうで、ご自分の師匠を推奨していらっしゃいました。

可愛い弟子だ(^^)

 

この方は、そうやって自己の自尊心を満たそうとしているんだけど、これだから正しく禅を行い無我を達成するのは、とても難しいことなんだなと感じました。

 

 

この方は、自分の観念(そう言ってれば、自分は悟っている。と言う思い込みであること)に気がついていません。

 

禅の本を沢山読むと、誰でも必ず似たような誤謬を犯すので気をつけてね。

むしろ、禅の知識が無い人のほうが有望です。

 

 

 

 

 

頑張ってね(^^)