現代の人々の瞑想
現代、ヨーガのスタジオや瞑想のスタジオが世界中に存在しいて、瞑想の健康効果など、わたしたちの心身にとって大変メリットが有ることは広く認知されています。
古くはラージャ・ヨーガに啓発されたシュルツ博士による「自律訓練法」が有ります。
マインドフルネスの技法ではこれを「ボディースキャン」と呼ぶようです。
日本では「軟酥の法」と呼びます。
瞑想習慣を持つ未来人
ショーン・コネリーさんの映画「未来惑星ザルドス」では、未来人は一日を日長、瞑想して過ごしており、信仰と科学が渾然一体化した社会を描いていました。
世界の対立や、自他の区別により様々なストレスに晒されるわたしたちにとって、「未来の人々の洗練された生活スタイル」とは、そのような印象を持つのでしょう。
バルカン星人(^^)
また「感情や情緒を非論理」として捨て去り、どこまでもひたすら「論理的に生きるバルカン星人」の皆様も瞑想習慣を持ちます。
メディテーション中のスポックさん
バルカン星人というのは、恐らく日本人か中国人か、ともかく西洋の人が抱く
東洋人のイメージを具象化したものなんでしょうね^^;
ブッダは在家に瞑想はやらせていない
でですね、今、テーラワーダ系の仏教が2週間とか10日間とか、一定期間、世界中からやってくる人々に瞑想を教えています。
わたしは、とてもいいことだと思うんです。大いに生活に瞑想の習慣を取り入れてください(^^)
ところがね、わたし仏典を読んでいますけども釈迦牟尼が在家の信徒に瞑想を伝授した記載が見当たらないんですよ。まだ、それにぶつかっていないだけかも知れませんが・・・
それでも凄いステージの在家が存在します。
ナンダ・マーターって女性は今のネドじゅん先生みたいな人。
そこでサーリプッタは不思議に思って尋ねた。
「時にナンダマーター信女よ、不思議ですね。なぜ、この様な大人数の食事がタイムリーに準備出来たのです?まるで予め、わたしたちがここを食事抜きで通りかかる事を事前に承知であったとしか考え得ませんが?」
そこでナンダマーターは昨日の出来事を語ったのであった。
「実は、昨日の明け方の事なのですが、わたしは早朝に起床し「パーラーナヤ(かの岸に至る軌道)」を朗唱していたのです。朗唱を終えると、直ちに声がしました。『素晴らしい事だ、素晴らしい事だ姉妹よ』と。
そこには全身から光を放った神がいて、自分をクベーラ(毘沙門天)の王だと告げました。そして当に今日の朝方、朝食を終えていない皆様がここを通りかかるので、あなたは朝食の供養をサンガに行えと告げたのです。そしてその功徳を自分に回向せよと、それはあなたの功徳を更に増大させるであろうと助言してくださいました。ですから皆様にこの食事の供養をなすことが出来たのです。
この皆様に提供させていただいた供養によって生じた功徳は全て、クベーラの大王様へと還元されますように」
瞑想(四念処)は出家の法則
どう言う意味かというとね、瞑想は八正道の中に存在していて、これは出家の法則なのね。
釈迦牟尼にとって瞑想が心身の健康維持という狙いは微塵もないと。
だから、飽くまでも瞑想は解脱の方法論として、お釈迦様によって位置づけられており、その場合は出家、頭陀、ウポーサタ(懺悔)、経行(気を強化するために行った)、托鉢行がベースに於いて実行されて、その上でやっと瞑想してもいい、と。
つまり、それはお釈迦様は瞑想を間違って行うとかなり危険だと認識していたようなのです。
(「崖で母にはぐれた仔山羊が、もはや元に戻れないようなものである。修行以前のスタート地点に戻ることはない。彼は来世までも潰す」
しばらく魔境の人生を何度か転生するようです。霊が「四ね!」と言うだとか、わたしは神だとか言って統合失調症気味の方などがそれだと思われます)
今のマインドフルネスは良いです。問題ないです。
と言うのは、お釈迦様によると、マインドフルネスは瞑想と定義されていないんです。
生活の中で行う、四念処の前のエクササイズとされています。
集中のトレーニングであるとね。
在家も出家も四預流支を行う
では、お釈迦様は在家の実践として一体何をさせたか?
と、言うとそれは
- 布施功徳
- 在家の五戒
- 四預流支
- パーラーナヤの読誦(読めばつぶさにそれと判りますが、これは五蘊無我の瞑想するのに近い)
この4つなの。
「パーラーナヤ」の読誦というのは、つまり仏教では、文字を使って経典を写していたようなんです。常識ではみんな、仏教では文字を使わず全て暗唱していたと言っていますが。
パーラーナヤはわたし解説付きで、全文を記事にして出していますので、探してね(^^)
2つの「四預流支」
四預流支(聖者を支える4つの実践)は基本の四預流支と出家の四預流支はちょっと異なるんだけど。
ところで、預流というのは「真理の流れに自己を委ねる、預ける」という意味です。
基本となる四預流支
- 親近善士(成就した先達に頻繁にまみえること。世俗の価値観に流されないため)
- 聴聞正法(繰り返し正法を聞くこと)
- 如理作意(聞いた法を道理に沿って理解すること)
- 法随法行(法に従って身口意の統御を行い、真理に適った生き方をすること)
です。
預流相応
第5サーリプッタ 2
時に尊者サーリプッタは世尊のいるところに行った。
行って世尊を敬礼して一方に座った。
サーリプッタに世尊は言った。
「サーリプッタよ、預流支、預流支というのは、サーリプッタ、何を預流支というのか」
「大徳よ、善士親近は預流支です。正法聴聞は預流支です。如理作意は預流支です。法随法行は預流支です」
「その通りだ、サーリプッタ。その通りだ、サーリプッタ。善士親近は預流支である。正法聴聞は預流支である。如理作意は預流支である。法随法行は預流支である」
「ではサーリプッタよ、流れ、流れというのは、サーリプッタ、何を流れというのか」
「大徳よ、八支聖道は流れです。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正念・正定です」
「その通りだ、サーリプッタ。その通りだ、サーリプッタ。聖なる八段階の道は流れである。すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正念・正定である」
「サーリプッタ、預流者、預流者というのは、サーリプッタよ、何を預流者というのか」
「大徳よ、この聖なる八段階の道を成就した者を名付けて預流者と言います。このような名、このような姓の聖者です」
「その通りだ、サーリプッタよ。その通りだ、サーリプッタよ。この聖なる八段階の道を成就した者を名付けて預流者という。このような名、このような姓の聖者である」
えと、預流と言うのは四向四果の第一段階ですが、この場合は全体を通して阿羅漢を含めて聖なる流れに身を委ねたと言う意味で預流者と言っているようです。
- 預流
- 一来
- 不還
- 阿羅漢
因みに、もう一つの出家の四預流支は
預流相応 第一竹門品
(一)第一 国王
では4つの法則とは何であろうか?
修行者たちよ、ここに聖なる多学実践の弟子は覚者に対し、絶対の浄心を具足する。
すなわち
『実に、疑いなく、かの世尊は、供養に値し、最上正等覚者であり、知徳成就者、最上善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、覚者、世尊でまします』と。
また、法則に対し、絶対の浄心を具足する。
『世尊により明らかにされた法則(真理)は現実に利益をもたらし、直截であり、全ての人々に理解できるように説かれており、煩悩の滅尽に導き、それぞれの理解力に応じて認知される』と。
またサンガ(ブッダの聖なる弟子衆)に対し、絶対の浄心を具足する。
『世尊の聖なる多学実践の弟子衆は、善に付き従い、正しい法体系に従い、正しい法則に従い日々を過ごされる。すなわち四双八輩(しそうはっぱい)の人々であり、崇拝に値し、合掌を受けるに値し、世界の無上なる福田(幸福を実らせる田)である』と。
また、聖者の愛する種々の戒を具足し
『聖なる戒であり、道徳においても肯定され、わたしたちを悪趣から護る戒であり、煩悩から解放させる戒であり、識者に称賛され、煩悩に負けないための戒であり、ついにはサマディに糧する戒である』と。
これら4つの法則を具足することである。
従って修行者諸君、例えこの世界を全て手中に収めようが、4つの法則を具足することに比べれば、それは16分の1にも満たないのである。
「我は世界の全権を握りたるものであ~る」
誰かさんよりも16倍以上も価値が有るぞと。
六波羅蜜
ところが大乗仏教に入ると、布施功徳を初めに持ってきて在家に瞑想させています。
- 布施
- 持戒
- 忍辱
- 精進
- 禅定
- 智慧
なるほど、禅定に入る前に、精神のバランスを崩さないように功徳、持戒、耐え忍ぶこと。
が来てますね(^^)
成就を狙って来ています。
でも、これを現実社会の生活にどう反映させて実現させるかと言う課題はちゃんと解脱を達成した師の指導が無ければ、難しいと思います。
アシュタンガ・ヨーガ
因みに、ラージャ・ヨーガはどうでしょうか?
- ヤーマ 禁戒
- 二・ヤーマ 勧戒
- プラーナヤーマ 気のコントロール
- アーサナ ナーディーの調整
- プラティヤハラ 感覚制御
- ダラーナ 放念
- ディアーナ 精神集中(ディアーナの漢訳が「禅」となった)
- サマディ 三昧(定)
3と4は初期仏教ではアナパーナサチと経行を当てます。
こうして見たら、大体、八正道と同じと申せます。
プラティヤハラに相当することとして、お釈迦様は「諸根の門を守れ」と説かれています。
7と8は正念と正定です。
禅定という言葉は、この7と8を続けて呼んでいます。
だから禅(瞑想)と定(サマディ)という意味なのね。