(慈悲くらい、わたしにもあるけど・・・)

と、お思いになったんじゃ無いでしょうか?

 

 

四無量心の「無量」という意味についてお話いたしますよ(^^)

 

 

  スッタニパータ

 

スッタニパータの中村元先生の翻訳には、慈心の箇所にこの様な訳が付されています。

「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである」

と。

 

 

 

ところがここ、スマナサーラ師の翻訳(長年、スマ師に師事なさって居た方が「いくら日本語に堪能とはいえ、あのスピーチだ。スマ師の日本語能力は中学生くらいなのだ。経典の翻訳は駒澤大学の先生の翻訳したテキストを剽窃している」とAmazonのレビューで書いてて、別のも参考に読むべき」と言ってます)同じ箇所。

[解脱という]目的をよくわきまえた人が、静かな場所へ行ってなすべきことがあります。

となっています。

 

どう感じますか、似たようなものでしょうか?

 

 

 

  阿羅漢に到達したら次に取り組む修行

 

ところがね、梵行(梵天界に至る修行)で四無量心を修するには、先に煩悩が無くなっていないと、非常に難しいんです。

 

どうしてでしょうか?

 

 

 

  判官びいき 人情は人のカルマ

 

それはわたしたち人間は「自分が気に入っている他人には同情を寄せることはた易いが、自分に仇をなした人間の不幸、悲しみは最悪の場合(ザマアミロ。当然だ)と溜飲を下げる」のね。

 

ねえ、その逆にね。

自分に仇をなした人が、世間で称賛を浴びるとしましょう。

 

気分が良くないんじゃありませんか?

自分が嫌いな人が成功すると妬みが起きるんじゃありませんか?

 

 

それは当然でこれが人のカルマである「情」に基づいた心の働きなのね。

 

 

 

  慈悲を実践するつもりが情にほだされている

 

本人は「わたしは菩薩である、だから四無量心を実践している」と思っていても、その対象者は身内や家族や友人だけだったりするの。嫌悪があったり、自分に仇をなす人には妬みが先立ってしまうのが、人の持つカルマ(情)なのね。

 

 

 

  人への好き嫌いや差別を無くしてから

 

そこで、お釈迦様は阿羅漢を達成したものが、次に取り組むべき課題として

「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである」

これは「エゴ(我ね)を滅した段階で四無量心に取り組め」と云う意味なのね。

 

 

 

 

  太陽は誰を照らそうと思い悩むことはない

 

慈悲を施す対象は区別されてはイケなくて、これは四無量心では無いの。

ねえ、慈悲を施す対象に全く制限がないから「無量心」と云うんですね。

それはちょうどお天道様の図らいと同じでないとダメです。

全てに平等が求められます。

 

 

 

だから、わたしたち凡夫が四無量心を身に着けようと願うと、ここに工夫が必要になります。

今日は時間がないのでここまで。

 

 

 

えーと、四無量心に内在されている意義については、ちょっとまっとってね。

またね(^^)