何度か書いていますが、とても重要なので書きます。

 

 

 

 

 

能登半島地震で100名ほどの大切な命が失われました。

先程、報道で知ったのですが、ある男性は実家に帰省されていた奥様とお子様5人と、実家先のご両親を一度に失われたそうです。

 

 

同情に堪えません。

この世で独りぼっちに突然、なってしまわれたのです。

 

 

わたしはそれを自分自身の事と観想して、深い絶望と悲しみを味わいます。

何とかこの男性を励まして差し上げたいと痛切に思っています。

 

 

 

 

  悲哀 限りない同情のこころ

 

このように、今ここに一人では耐え難い、押しつぶされそうな苦悩のどん底に置かれている人が現実にいらっしゃいます。

 

 

一人ではこの悲しみに堪えきれない、自分も家族の元に行きたい。

もう、この世には辛い思い出でしか無い。

何を見ても、愛する家族を思い出し

「これは夢であって欲しい」と何百回と日に考える。

 

 

 

ここに「あなたはどうしてそんなに絶望に沈んでいらっしゃるのですか?」

あなたは声を掛けて、その訳を訊ねます。

「突然、わたしは家族を失いたった独りぼっちになったのです。別れを告げる時間さえなかった」

 

それを聞いた途端、あなたは自分をその境遇において、その方と同じ悲しみを味わった。

ここにたった今、二人の人間が絶望に苦しみ、そして同じ涙を流した。

 

 

また、別の人がそこを通りかかり、あなたと同じ様に二人が悲しんでいる訳を訊ねた。

またこの人も清らかな心からの同情をよせ泣いた。

 

また、次の人も同じようにした。

また、次の人も

また次の人も・・・

 

遂には世界中の人が「家族が突然、災害で永遠の別れの絶望を味わい」彼とともに泣いた。

 

 

 

 

 

するとね、自分以外の何万人。何十万人、何百万、何億という人々がたった一人を放って置かなかった。彼の孤独、絶望、悲しみをみんなが共有した。

 

すると、一人ではその重さに耐えられないけれど、

(こんにも多くの人々がわたしの苦悩を理解して、同じ気持ちを共有してくれているんだ。わたしは決して孤独では無いんだ)

何とか、頑張ってみよう。と、希望が湧きはしませんか?

 

 

悲しみを共有する。これが四無量心の悲哀(限りない同情を寄せる)という意味合いです。

 

 

 

そしてね。

いいですか重要だよ。

なぜ、この実践がブッダによって説かれたのか?

 

解脱の秘儀がここには存在するからです。

 

 

短めに云うと、この悲哀は人間世界の心の有り様では無いのね。

梵天界の神々が元々、備えている心なのね。四無量心の全てを梵天界の神々は備えているんだね。

 

 

ね?

嫌悪は地獄でしょ。

貪りは餓鬼でしょ。

無知は動物に転生し、情は人間ですよ。

支配欲、自尊心は阿修羅ね。

 

梵天は六道を越えた色界の神々です。

四無量心は梵天に転生するカルマを形成する心の獲得なのね。

もちろん持戒は必須ですよ。

 

 

そしてね、四無量心は心の成熟を促すので、早く悟りに到達する瞑想でもありますよ。

四無量心を瞑想として行う場合は、これを「四梵住」と言いますよ。

四念処と双璧の重要な瞑想だからです。

 

 

そしてもう一つの秘儀。

・・・・次に書きます^^;

 

 

 

だから、はい。

みな様は今、家族を失った人々、今この瞬間に紛争で家を失った人々の苦悩を想像して、情報をかき集めて

 

(これは当に、いま自分に生じた苦悩なんだ)

 

これが四無量心の「悲」の瞑想です。

 

 

 

能登半島地震だけじゃないよ、ウクライナの人々、パレスチナの人々。貧困国の人々・・・

引いてはこの瞬間に地獄で苦しむ住人、餓鬼で飢えている住人。全ての魂の苦悩を想像し、

 

お釈迦様の言葉を借りれば、これは慈悲の慈について語ったものだけどもね。

 

いかなる生物生類であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

    
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

    
あたかも、母が已が独り子を命を賭(か)けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量のこころを起すべし。

    
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

    
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

 

 

ん~、前にTwitterで四無量心の瞑想を教えて上げたの。或るおじさんにね。

 

するとこの人は、どうも四無量心の瞑想が偽善とか、小っ恥ずかしいとか考えてやろうとしないの。

普段、ダジャレやジョークばかり考えているけどね。(一応、瞑想家の端くれの人で、人を集めて瞑想の指導をしている。臘八摂心にも出かける)

 

 

で、彼は自分の、このジレンマをチャルーンサティで有名なプラユキ・ナラテボーさんに相談した。

「四無量心の瞑想、絶対やらないとイケませんか?」

「瞑想より、実践が大切です」やらないで良い、上手い言い訳を教えてもらった。

 

「わたしは実践が大切だと気づいたので、瞑想はやらない」とわたしに言いました。

好きにしてなさい^^;

自分の気に入ることだけやってなさい。

 

 

 

あのね、イメージトレーニングって有るじゃない?

普段、慣れておかなくて、いつ実践が出来るのさ?

心に定着しないのに、どうして大事なシーンで実践が出来るのさ?

 

関西の人が慣れていない名古屋弁をペラペラ喋ろうと思っていて、しかし、練習もしないでいきなり慣れていない事が出来るかな?

 

おじさんは悟り希望だったけれど、もう悟ったかしら?