松尾芭蕉は、深川によく滞在した仏頂和尚(普段は茨城県にいた)に師事していて禅を学んでいました。
わたしは前から言ってますが「禅」は元々莊子なので、この両者はとても馴染みます。
仏頂和尚は参考のためか芭蕉に老荘を説きました。
禅をやる人で莊子を座右の書とする人は大変多いのですが、そんな訳で芭蕉もそうでした。
仏頂和尚(リンク)
著者は玄侑宗久師、臨済宗のお坊さん
さて、そこで有名な「古池や蛙飛びこむ水の音」ですが、これは俳句の極地と言われます。
何故でしょうか?読めばあなたも即納得(^^)
印可
ある時、仏頂和尚が芭蕉庵を訪れて、芭蕉の近頃の心境を訊ねて芭蕉が応えたのがこれ。
初め「雨過ぎて青苔潤う」と、芭蕉は応えました。
(至って当たり前、つまり、ありのままです)と言う意味。
和尚は(それはいわゆる常識の見解(けんげ)だ、お前はどうなのだ?)と思った。
そこで仏頂和尚は更に畳み掛けて「そんなものか?もっと言え」と芭蕉に迫ります。
芭蕉はしばらく考えて、「かわず飛び込む水の音!」と応えます。
和尚はニッコリして芭蕉に印可(悟ったという認可。証明の発行)を与えました。
つまりこれは「悟り」の表現なのね。
内言(心の声)が停止した人はよく納得出来ると思うけど
・・・はい、想像してね
どこか鬱蒼とした山奥、人知れず池がありました。
その池に、何のはからいも無くただカエルが飛び込んだと・・・・
ぽしゃ~~ん・・・・・静寂が森を包んでいる
カエルが飛び込んだあと、あいも変わらず森は静寂に包まれています。
それは悟りの「心の声が停止した状態」を見事に表現しています。
それが芭蕉の心を表すのだと言ってる。
はい、それを観想し(それがそのままわたしの心の状態である・・・)
・・・はい、悟りましたね(^^)
ならない人はそうなるまで続けてね。
「心の寂静」を味わうつもりでリラックスね。
かわず飛び込む水の音「ぽしゃ」し~ん
なぜ、俳句の極地なのか?
納得出来ましたね(^^)
「悟りに八正道なんか要らない」という意見。
「在家は悟りが極限」
という意味も判ったんじゃ無いかな?
名色が停止する「悟り(心解脱と関係があります)」と、3つの明智で起こす「慧解脱」は違うのね。
確かに「悟り」には八正道は必要ではありません。公案か善知識で行けます。
心に集中が優位な時は心の離解脱が起きやすく、渇愛の停止に至り。
法を観照している状態が優位な時には、如実知見によって
パンニャー・ビムッティ(智慧の離解脱)が生じやすいという意味
「凡そ」というのは、大体そうなるよ。ということ。
確実にそうなる。という意味ではありません。
「悟り」と「慧解脱」の相違を理解出来ず、これを同じと思うと、ちょうど推理小説を読んでて、(犯人はアイツに決まってる!)と間違って思い込むようなものなのね。ずっと「仏教」を誤解したまま。
酷いと「小乗は自分が悟ればいいとするので戒律にうるさい。戒律を守ろうとするのは、自分の悟りを得るためなのだ。しかし大乗は衆生済度のために泥中に入って行くので敢えて戒律に拘らない」などと言います。何も判っていない。
ふふふ、わたしの目は誤魔化せませんぞ。
犯人はあなただターラーさん!
なっ。違います!わたしはその時、自宅でたこ焼きを焼いて食べていましたわ!
抗弁するわたし