今更で申し訳ないのですが。

あのね、ちょっとお断りしたいことがあります。

 

今、わたしが底本にしてる翻訳は、一応数名の学者さんから成る翻訳組織による翻訳なのですね。

監修しているのが中村元先生です。

 

そこでたとえば「比丘」という単語も人によっていささか翻訳が異なります。

比丘を「修行僧」とか「修行者」とか「比丘よ」とかね。

 

 

で、自分の体験上(ここは、こうあるべきじゃない?)と言う部分はわたしによる変更があります。

わたしはサンスクリット語やパーリ語を読めないので、もしかしたらこれを「後世の改竄」と呼んでいるかも知れません。

 

しかし、同じ単語に関し、数種の訳語の中でどれを採択するか? 翻訳者によって異なる訳語が付して有るのも事実です。

 

その中で何を決定するかは、その人の修行経験とセンスなの。

 

 

 

それでわたし、気になるのが四念処に頻出する「自己の内側、外側(他人)」と書いてある部分です。「外」が全て「他人の」と訳されている箇所がどうもしっくりと来ません。本当にお釈迦様が「他人の」と言ったのかな?という疑問が払拭しきれないのね。

 

 

四念処の観察対象はどこまでも自分自身であるべきです。

 

 

だから首をかしげながら大念処経を書いています。

したがって、後にこの部分を変更するかも知れません。

 

 

心に留めておいてね。

 

 

 

 

 

  知ったかぶりで大間違いをやらかす人々  

 

ついでに。

 

「八正道」をかいてる人はとても多くて、大川隆法さんも書いてるし、ヨグマタも書いてるし、高橋信次さんも本を書いています。このブログにも大勢いらっしゃいます。

 

 

 

高橋信次著「反省のかなめ」

八正道が反省の視点と最初に言ったのはこの人

それを信じたのが大川隆法さん

 

 

 

 

  「四聖諦、八正道、十二縁起くらい説明出来て当然である!」えへん

 

仏教者たるもの、四聖諦や八正道くらい説明出来て当然と考えるのでしょうね(^^)

 

 

ところがですねえ。

みんな「正見とは正しい見方です」と。それは「あるがままに見ることです」と書きます。

「ではあるがまま、とは何でしょうか?」

大川隆法さんなどは「一日を振り返り神の視点で見て、わたしは正しく見たか?」などと言ってる。

 

 

ヨグマタ「八正道」から

 

 

既にここから間違っています^^;
 

 

敢えて言うと「四聖諦」と言う色を付けて見るのが「正見」です(^^)

 

はい、ここが今日の「目からウロコの仏教」ですよ。

この世を苦の集積と見たことが今までの皆さんの人生でありましたか?

(まあ、絶望で自殺してく人はそうかも知れないね)

 

一切は苦であると色を付けて見るんです、これが正見

 

 

 

この場合、何を前提として何が「正」なのか?これを定義しているのは如来であるお釈迦様なのね。

 

 

 

  どの道筋が目的地への経路か?

 

言っている意味わかるかな?

 

 

ここにね、十字路があったと仮定してね。

どっちに行くのが正しいのですか?

 

 

「そりゃ、目的地がどこに行くかで違って来るだろうよ」

 

でしょ?

 

タバコ屋に行くのか、クリーニング屋に行くのか、牛丼食べに吉野家にいくのか、東京ディズニーランドにいくのか、種子島宇宙ロケットセンターに行くのか、ペンタゴンに行くのか、アンドロメダ星雲にいくのか・・・

 

どこを目指すかで正しいという定義が変わってきます。

 

 

人間関係の悩みをなくすのが「正見」ではないの。

 

いいかな?他人なんて関係無いんですよ。

自分が解脱するために一切を苦と見る

それを正見とわたしは定義したと言っているのお釈迦様は

 

 

 

 

ヨグマタはちゃんと八正道相応を読んでないから、日本語の感覚でそのまま「人間関係の悩みや人生の不安をなくしていくのが正見です」と堂々とデタラメを書いていると推察出来るのね。

 

大川隆法さんも、このブログで八正道の解説をしている人も、お釈迦様がちゃんと始めに定義したを知らないのが明確なの。

 

自分の常識的印象に従って「ありのままに見ることが正見です」などと言ってる。じゃ、100人がありのままを選択したら、みんな同じ方向に向くのですか?

 

 

 

 

八正道の「正」を定義したのはお釈迦様なのです。

 

 

 

 

いいですか?

  • 四禅定(正定)に入るため。(サマディのことね)
  • 解脱して阿羅漢に至るため。
  • 3つの明智を獲得するため。

それには・・・

  • この世界の一切が無常であると見なさい
  • 無常を苦の集積と見なさい。
  • 「この無常世界をわたしは離脱するのだ」と見なさい。

これをわたしは正見と定義すると。

 

 

 

 

八正道相応

分析

正見

では君たち、何をもって正しい見解とわたしは定義するのか?

それは実に

 

 ①苦しみにおける精通。

 ②苦しみの生起における精通。

 ③苦しみの滅尽における精通。

 ④苦しみの滅尽に至る方法論における精通。

 

これら聖なる四つの絶対的真理によって一切を観察する

これを以てわたしは正しい見解と言うのである

 

 

これのどこにお釈迦様が「人間関係の不安や悩み」を解消するため八正道を説いたとありますか?

 

 

解脱するための価値観を「正見」と呼んだのであって、ありのままに見る事が「正見」と思い込むのは本末転倒の大間違いだと言うことなんです。

この様に「正しい」という定義は、既にお釈迦様によってなされたのが「八正道」なの。

なのに、お釈迦様の「八正道」を後世の人が自分の観念で変えて「八正道」と言って本に書いているんです。それが現状なのね。

 

 

「ありのまま」は心を停止させて、如実知見に入らないとありのままの体験は出来ないんですよ。

始めに「ありのままに」はなれません。

 

 

 

 

 

  ヨグマタのサマディ

 

ヨグマタはね、インド政府に正式に認定された聖者です。

彼女は仏教の方法でサマディに到達した訳じゃ無くてパイロットババ系統のヨーガによって、サマディに入ったの。

パイロット・ババとヨグマタ

戦時中、軍機のパイロットしてたので「パイロット・ババ」

 

 

ヒマラヤ・ヨーガの方法論で入ったの。

 

だから「八正道」は知らないというのが本当だと思います。