修行者たちよ、四つの聖なる絶対的真理に目覚めること無く、そして洞察しないが故に、わたしのみならず、そして君たちもこのように、この大変長大な期間、生まれ変わらされ、そして流転させられたのである。四つとは何であろうか?
真理相応 コーティー村品 二一 第一「無明」
※仏弟子の告白には「5億年分の記憶が生起した」と仰天するような記述があります。
わたしの古い記憶はぜいぜい5千年くらいです。
お釈迦様に至っては無数の宇宙生成期、宇宙維持期、宇宙破壊期、宇宙虚空期を思い出したってあります。
お断りでございます^^;
スミマセン、やたらややこしいかも知れません。
お釈迦様の解脱修行の原理みたいなことを解説しようと思いました。
分からない仏教語にぶつかったら、どうかググりながら読んでくださいませ。
お釈迦様はメカニズムは一切言わない師匠でして、ただ「これをやりなさい」と、それだけを説くのです。その方が良いのかも知れません。
わたしは愚かなのしょう、多分・・・・^^;
今、どうしてこれを公開するかと言うと、わたしは今「大念処経」を解説していますが
①四念処の前に「懺悔による浄化(タマスの軽減)」と「サットヴァ(功徳)の強化」がなされていないと、四念処の効果は半減という基本的な事実が一つ。瞑想で解脱するなら出家は何の意味があるのか?と、四念処さえやれば解脱すると思うのは大きな間違い。
②解脱とスピリチュアルの間には因果関係など無い。
をお伝えしたい狙いがあります。
噛み砕いて書いているつもりですが、内容的にはかなり高度になっています。
お釈迦様は瞑想の指導家ではない 解脱を司る如来である
司るというのは、お釈迦様が弟子を見ていて(もう、こいつは解脱させてもいいな)と判断したら、成就をもたらす力が有る。という意味です。
信と帰依の意味
これを師の恩寵と言います。でね、そのパイプを作り出すのが信と帰依なの。
解脱を狙うなら、それは来世かいつになるか分からないけども、皆さんは信も帰依もとても弱いです^^;
(ああ、どうしてお釈迦様のいない時代にわたしは生まれたの?お釈迦様、ああお釈迦様、お姿を拝みたい・・)とわたしみたいに泣いてしまう程度には欲しいと思いますよ。
パーリ仏典を読むと(ありがたい)と感謝と喜びが湧いて来るとかね。
120歳で修行を始めて成就
テーラーガーター(仏弟子の告白)には、なんと120歳で解脱したと言う老人が出てきます。
息子さんに付いていったらしいのですが、当然、息子(ダンマサヴァ)さんも解脱しています。
齢い120歳のこのわたしは、家を捨てて出家した。
今や三種の明智に通達し、ブッダの教えを成し遂げた。
ダンマサヴァの父である長老
※ブッダの教えとは3つの明智を成し遂げることです
120歳の老人が3つの明智を達成したと言います。
一方、そのう・・・何年も瞑想やってるのに効果がない。
とお嘆きの方は、信仰と帰依、サットヴァ(功徳、光、啓発の要素)、懺悔(心の浄化、タマスという暗闇を払う)に関し、全く切り込んでいないんじゃないかと。
ここの所を今の仏教(禅にしろ、テーラワーダにしろ)は言わないようです。みんなハウツーに囚われているの。
如来禅だとか黙照禅だ、看話禅。ヴィパッサナー瞑想だの阿字観だの・・・
みんな瞑想だけやれば結果が手に出来ると考えています。
般若心経の屁理屈は大好きなくせに、信仰や懺悔や功徳を軽く見ていると思う。
これは基本的な誤解をやらかしているのね。
桐山靖雄さんを例に言うと、彼は「八正道はレベルの低い修行者に説かれた」みたいな事を著書で書いています。
知性の高いのは瞑想(求聞持聡明法)だけやってれば成仏するのだ。と考えていたらしいの。
だから彼は将棋のスポンサーやってるし、ゴルフ好きだし、アルコールも飲みます。
愛人も囲っていたと言いますね。
メソッドで解脱すると考えている典型です。
後は坐れば終わり
もう後は坐れば終わり。という直前まで条件を培ったから、お釈迦様は瞑想して解脱が成功した。
(これが八正道)
これが真実なんだけど、多くの人はほぼ、ブッダは「瞑想で成就した」と考えています。
今、書いてる「大念処経」がそれですね。
しかしこれは修行プロセスの最期のところしか見ていません。
「苦行は意味が無いと考え、乳粥を食べて滋養を確保して瞑想に臨んだ」
だから瞑想しか無意味と思っています。
ブッダは苦行林を否定した
お釈迦様が否定したのは飽くまでも「苦行林で行なった苦行」ね。
うんこを食べたり、犬のマネをして生活したりします。イバラで寝たりとかね。
麻麦(日に、生の麻と麦を食べる)の行だとかね。
それ以外の苦行は推奨しています。苦行は恵みをもたらす慈雨だと言っているよ。
(師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛と鋤きである。慚(慚愧:反省)が鋤棒である。心が縛る縄である。気をつけること(正念正知)が鋤先と突棒とである。
スッタニパータ 田を耕すバラモンバーラドヴァージャ
今の仏教界はそのような誤解だらけなので、瞑想を指導すればいいんだ。とか、瞑想すれば悟るんだと期待しています。
「八正道の指導をする」という仏教のセクトは日本にはありません。
初期仏典を標榜する阿含宗は八正道をやるのか?と期待したら「仏舎利宝珠尊解脱宝生行」と言って、桐山靖雄さんの主張とは正反対の事をさせます。
それまで桐山靖雄さんは「釈迦の成仏法である七科三十七道品しか成仏しない」とさんざ、書いていました。
これのどこが七科三十七道品なのか理解が及びません。
三十七道品の入り口(?)なのだそうですが、これは苦しいこじつけです。
だって三十七道品には供養の概念は皆無です。
仏舎利宝珠尊解脱宝生行はこの3つ
1.仏舎利供養 功徳は積みます
2.先祖供養 これは仏教の教えではありません
3.心解脱行 中身は心解脱とは無関係です
心解脱行に至っては、1,2の仏舎利供養と先祖供養を行い、持戒を守ることが心解脱の修行なのだそうです。
恐らく桐山靖雄さんは心解脱が何か理解していないんじゃ?
そこで、(どこかにものすごい秘伝の瞑想メソッドが有るんじゃないか?)と幻想を抱き、悟りを期待して禅だの、密教の観想だの、東南アジアへヴィパッサナー瞑想を学びに出かける方がいます。
ところが驚いて頂戴ませ、初期仏教じゃ出家した場合、平均3ヶ月くらいでみんな解脱を成就します。早い人で一週間、ケイマ比丘尼は9ヶ月などと言われています。
結果が驚くほど早いのね。
先に上げた120歳の御老体まで解脱する始末です。
それは当然で、ひつこく言うように、そもそも瞑想だけをやらした訳ではありません。
では、ソユ事を踏まえて頂いて・・・
四聖諦
- 苦における精通
- 苦の生起における精通
- 苦の滅尽における精通
- 苦の滅尽に至る方法論における精通
この4つね。
この四聖諦は解脱時に体験として皆さんにも生じます。
と、言うことは逆に観念的にね
「苦とは四苦八苦です。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦、生老病死は苦なのですねえ」
と、理屈で理解しても仕方がないということなのです。
もし、そう書いた人が、その後、日常の煩悩生活をしていたら、やはりこの人は苦諦を言葉の意味しか理解していません。般若心経の解説している人も殆ど同じです。
で、道諦は「苦の滅尽に至る方法論における精通」です。
ここが会得されていないので・・・というよりも四聖諦はバラバラでは無いので、この4つは一つの繋がりです。
なんで「聖なる絶対的真理」なのか?
えと、促して起きたいのですが、お釈迦様が「聖なる四つの絶対的真理」とわざわざ強調するのは、重要な意味を含んでいまして、後に登場する大乗もタントラもこの4つの絶対的真理は曲げたり、省略することはありえません。
とにかく、何よりも優先するから「聖なる絶対的真理」と、お釈迦様はことさら強調するのです。
群盲象を撫でる
ちょっと逸れますが。
三相というのも同じで、無常・苦・非我は分けられません。
人に理解されやすいように分けて言っているだけなのです。
概念上はこんな感じ。
仮に二次元生物が居たとしたら、この三角錐(錐じゃないか^^;)を彼らは
「これは円だ」
「いや方形だ」
「いや三角だ」
と、意見が分かれることでしょう。
これを「群盲、象を撫でる」と言います。
四聖諦が会得され無いとスピリチュアルなことを言い出す
無明と渇愛が苦悩と輪廻の原因なのね。
これは無明(慧解脱のレパートリー)であるがゆえに、渇愛(悟りのレパートリー)が発生します。
だから、そこにターゲットを絞って無明と渇愛にアプローチしなければならないのに、例えば法華経の神秘的な力にすがって「法華経に帰依します。法華経に帰依します」という意味の南無妙法蓮華経を唱え、それで成仏すると言うのはスピリチュアルだと言ってるのです。
ところで「法華経は諸経の王」という言葉は自画自賛で有って、例えば発明家のDr.中松はものすごい肩書の賞を受賞していますが、この賞の主催者はDr.中松御本人なのです。
つまり、自分で自分に世界発明協会から「世界発明王賞」なる賞を贈呈しています。
これと同じで法華経を信仰する人が勝手に「法華経こそ諸経の王」と言うの。
お釈迦様の死後、やく500年ころ成立したのに、「お釈迦様がここにわたしの真意がある」などと言える訳がありません。
このように因果関係を無視して、スピリチュアルな実践を行うよう説くのはお釈迦様の実践ではありません。
我々は「法華経に帰依していない」から、輪廻や苦悩が生じているのではありません。
「題目」と「苦悩の解放」には因果関係はありません。
しかし日蓮はそう断言しているの。(法華経を信じる者が少ないと外国から攻められたり、災害や飢饉などの国難が起こると、立正安国論ね)
日蓮は最澄を信じて、最澄は智顗を信じてそうなりました。
さて、それを踏まえていただいて・・・
「苦の滅尽に至る方法論における精通」から言えば、念仏や題目、あるいは只管打坐という実践で解脱することはありえません。
なんででしょう?
以下説明いたします。
なお、わたしの未熟さのせいで、分かりづらいかも知れません^^;
偏えにわたしのせいなので、どうかご理解いただけるまで、何度も読み返してね。
大変申し訳無ありません。
転生のメカニズム どの要素がどこの世界に転生させるか
それを理解するには、転生のメカニズムを先に理解せねばなりません。
なお、わたしの読者の皆様は既にご承知ですが、初めてこのブログを見た方の便宜を図り、悟りと解脱の違いを簡単に言っておきます(^^)
- 悟り・・・名色が停止することにより、自己が消滅(無我)し、渇愛(欲望)も停止。
- 解脱・・・3つの明智の獲得により、無明の破壊がおき涅槃する。
です。
日本の仏教ではここがごっちゃになっています。
悟ればそれが解脱で、それは同時に涅槃であるってな考えをしています。
悟りは輪廻を認知しませんが、解脱は輪廻を認知し涅槃に向かいます。
ここのブログは解脱に関するお話が中心なので、悟りはおかず程度になっています。
だから、悟りから見れば八正道など「不要」という結論になってしまうの。
SRKWブッダさんの著書にはそう書いてありますよ(^^)
瞑想だけでは解脱しない理由
高い神々は心の清らかさも、幸福度も知性も寿命も桁外れ。
図はここから拝借しました。
いつもありがとうございます。
在家の実践「施戒天論」
まず、分かり易いので在家の五戒から行きますよ(^^)
諸般の事情によりどうしても出家出来ないものは、布施功徳を積み、五戒を守り、死後兜率天に転生しなさい。兜率天でも真理が説かれているので、そこで解脱すれば宜しい。
この実践を施戒天論と言います。ぐぐってみてね、必ずブッダの法則として説かれていますよ。
ウィキペディアに見つかんないの^^;
イエスも説いた施戒天論
この施戒天論がお釈迦様が在家に課した実践ね。
いいかな、そしてこれがイエス・キリストの教えと全く同じなのね。
と、言うことはですよ。
イエスはみんなを天界に転生させようと活動した方なのね。
今、ブッダや如来が不在なのでこの実践も非常に困難です。
五戒の意味
さて、そこで在家の五戒とは何か?ね?
これは結論を言えば、天に転生する要素だけを残して、後は切れ!という教えなの。
「お釈迦様は在家に五戒を定めた」と書いている人は多数だけど、
- なんで5つか?
- どうしてこの順なのか?
知ってる人はいないようです。
転生を決定ずけるそれぞれの煩悩(渇愛)
- 地獄・・・嫌悪と冷淡。鬱陶しい、邪魔者は消え失せろという心情。暴力を振るったら最悪。
- 餓鬼・・・貪り。もっと欲しい、全て欲しい、自分のものにならないなら、無くなってしまえという心情。
- 動物・・・無知、退屈や暇、寂しさに堪えられないこと。単に楽しみ。娯楽を求める心情。
- 人間・・・人情。情で相手を縛ることを喜びと感じる心情
- 阿修羅・・自己の過大評価により他を見下す心情
これに天界を入れると六道輪廻ですね。
そして天に行くには布施功徳が必須でしょ?
そして五戒によって五道を断つの。
はいそれが・・・・
- 地獄を断つ・・・不殺生。暴力を振るうな、慈しみなさい。
- 餓鬼を断つ・・・不偸盗。貪るな、気前よく困っているものに施せ。
- 動物を断つ・・・不妄語。嘘をつくな、真実を語れ。
- 人間を断つ・・・不邪淫。夫婦関係以外の邪な不倫や浮気をするな。
- 阿修羅を断つ・・・不飲酒。アルコールやドラッグを止めよ。
これは光明皇后がモデルとされています
阿修羅は自己を過大評価する生き物なのね、だから帝釈天が忉利天の王であることが我慢できない。
自分が忉利天の王になるのが当然だと考えていて、帝釈天と戦争ばかりします。
男の嫉妬。支配欲。これが自己の過大評価から来ており、お酒やドラッグでそうなるから、阿修羅を断つには不飲酒戒が来ます。阿修羅の別名が不飲酒天なの。
動物は無知なのね。
これは寂しい、遊びたい、曖昧に過ごしたいと云う欲求が彼らの心を占めています。
そしてそれは嘘を重ねると無知がどんどん蓄積し(ヨーガではタマスと呼びます)が増大し、その結果動物に転生します。ペットを想像しちゃ駄目だよ。あれは人に近い功徳を持っています。
動物転生の本質は「食物連鎖」の恐怖ね。
飢えるか、自分が食べられるか?
これが動物転生の恐怖ね。
OK?
六道の要素を全て断つ 必然、阿羅漢になる
ねえ、そして天界へ転生する要因も断ち、欲界から離脱する。
これが阿羅漢ね。
それには戒定慧の具体的実践である
- 出家
- 托鉢
- 持戒
- 頭陀
- 懺悔
- サマディ(八正道を始めとする三十七道品)
が必須となるのね。
八正道の二番め、三番目、四番目は「戒」で出来ています。
- 正思惟・・・心に貪瞋痴を持たない
- 正語・・・・不悪口、不妄語、不両舌、不綺語
- 正業・・・・不殺生、不偸盗、不邪淫
OK?
そしてお釈迦様が言うように、
外道で解脱した修行者はたった一人。
在家は皆無。(在家の場合、限界は不還果)
ね。
在家は不還果が限界
だから瞑想などを修して、在家で悟るのは当然で有ると言えます。
センスのいい人は、座学だけで悟る可能性もあります。
これを多学成就とか言います。(あの、片方で煩悩を満たすようなことしてちゃ、元も子もないから気をつけてね)
ただひたすら正見(一切は無常・苦・非我と見る。又は四聖諦によって世界を観察する)に徹する。
それだけで悟りくらいは行くはずです。
集中力を深めるには、呼吸法を入れるのがとても効果があります(^^)
浄化と功徳の必要性 持戒の本質
功徳と浄化がなぜ、瞑想と同じ様に必須かと言えば、上の天界へと登るには、そこの神々の条件を具足しなきゃ無理なの分かります?
わかりやすく言えば「今、死んだらわたしは神へと転生する」という状態が、神の具足ね。
そしてこれが戒が始めに来る本当の意味なの。
だから瞑想の前に戒によって、身口意の調御が重要なんだけど、日本では持戒の意味を知らない僧侶が殆なのね。最澄は戒を甘くしたし、みんなが尊敬する親鸞も戒を破った僧だしね。
地球は丸い
で、なんでそれをお釈迦様は重要視なさったか?と云うのは、地上にいて地球を観察するのと、高所から地上を観察するのとでは、どちらが地上をよく理解しますか?
という事なのね。
それが宇宙空間から地球を見るとどうですか?
これがブッダが「一切知(正遍知)」を獲得している意味合いね。
- 阿耨多羅三藐三菩提は初期仏教では「漏尽智による四聖諦、十二縁起、三相」の認知による覚醒を言います。
- 大乗ではその上、三身の獲得によって認知が更に拡大した状態を言います。
心の汚れや功徳の無い神などいない
あのね、皆さんにお尋ねします。汚れた心の高位の神が存在すると思いますか?
逆に言えばね、大いなる功徳を備え、そして広大で崇高な慈悲の心を持ち合わせた地獄の住人がいると思いますか?
言いたいこと、伝わりますかね^^;
神を超越しているブッダや如来だと尚更でしょ?
高級腕時計やスーツを無数にコレクションする大川隆法さんがブッダである訳がないよね。
つまり、持戒・懺悔というのは、最高位の神に至った条件を備えて、そこで解脱を起こしたい訳ね。
六道の要素を残したまま無我を経験すると「悟り」で終わってしまうのです。
この両者は内在する経験や知識が雲泥の差です。ここ覚えといてね、試験に出したいくらいですあたしは^^;
中国禅や只管打坐がまさにこれなの。
知徳成就者と最上善逝の意味
ブッダの十号に知徳成就者ってのがあるの。
ありとあらゆる功徳を備えたって意味。
もう一つ最上善逝ね。
有情世界の頂天なので、有頂天という
最上善逝は上の図の三角形の頂点を指しています。
つまり、ブッダは最上の天界へと転生する要素を具足しているのだと言ってるの。
絶大な功徳の集積と、一点の曇り無い、清らかで広大な慈悲のかたまりだと言うことね。
それが最上善逝の条件です。
過去の如来は皆、長い期間ずっと膨大な功徳を積み続けていると考えられています、仏教ではね。過去七仏ね。
お釈迦様もそれが実った生で如来として完成なさったのだとご理解ください。
だから阿羅漢くらいならそこまでは厳しく無くて、人間に生まれたなら、その条件をキープするよう頭陀と托鉢が求められるという事です。
ヨーガ・スートラの禁戒と勧戒が始めに来るわけ
でね、単に瞑想してサマディに入っても、功徳や浄化が無いと真理の開示はやって来ないのね。
ヨーガ・スートラにも禁戒と勧戒がはじめに来るのは、そのためね。
これが道諦と呼ばれる認知です。
だから只管打坐(ただひたすら瞑想せよ)を標榜するのは、ブッダの教えではないとわたしは言ってる訳ね。
そんなことしたって悟り以上の経験は生じませんよという意味です。
あとがきのようなもの
お釈迦様の修行体系がどのような狙いで組まれていて、どうして瞑想の前に持戒や懺悔が必須か?と言うことを是非皆様に知っておいて欲しいと考え書きました。
基本は輪廻のメカニズムを上手に利用して解脱しようと組まれているのね。
なお、「仏教のどこに懺悔が有るのか?」という疑問が生じるかも知れません。
懺悔は布薩とかウポーサタと言います。
日本では懺悔を軽々しく捉えているため、禅や瞑想ほどにポピュラーな知識ではありません。
それほど重要なのに無視されて来ました。
まるで懺悔や告解はキリスト教の専売特許のようです。