サンスカーラは無常である
「潜在的形成力」?仏典やヨーガ・スートラ見てるとね、サンスカーラ(またはサンカーラ)を「潜在的形成力」とか「潜在印象」と訳してあります。漢訳では「行」です。諸行無常の行ね。諸行無常 諸行無常(しょぎょうむじょう、巴:sabbe saṅkhārā aniccā、सब्बे संखारा अनिच्चा)は、仏教用語で、この世の現実存在(森羅万象)はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」とは因縁によって起こるこの世の現象(サンカーラ)を指し、「無常」とは一切は常に変化し、不変のものはない(アニッチャ)という意味 ウィキペディア「諸行無常」対機説法でね、いいですか。お釈迦様って人は、難しい専門語を一切退けて、平易な言葉で説法した方なの。対機説法というのは、そこに集まった人のうち、最も理解力が劣る方に合わせる。そいう意味なんだね。そこで「潜在的形成力(潜在印象)は無常である」って、言われて誰かピンっと来る方います?サーリプッタなどは、入門クラスの教えを聞いただけで預流果を得たとされていますよ。それくらい分かりやすい言葉でなければ、だめです。行を潜在的形成力とは呼ばないだから、「行」を潜在的形成力とするのは誤りです。「は?潜在的形成力ってなんです?」誰だってそうなる。現在の我が国の最高権力者、高市早苗でも、そう聞いてくると思う。だから、もっと日常用いるような普通名詞を使って説明がなされていると考えるべきです。でないとお釈迦様の意図から外れるんですよ。もう、中学生くらいの子供でもすぐ理解出来る言葉のハズなのね。五蘊無我ねえ、五蘊ね。 色・・・物質 受・・・感覚 想・・・イメージ 行・・・潜在的形成力 識・・・識別・観念 ここで、ちょっと逸れるけどね。 2.受・・・感覚 が、これまた問題を含みます。 後で言います^^;煩悩とサンスカーラでね、意味合いとしては煩悩のそのもののことなの。これがサンスカーラね。しかし、煩悩はクレーシャと呼ぶよ。患い悩ませる原因ね。ではサンスカーラとは何か?已むに已まれず、わたしたちを突き動かすもの。自分がされて嫌な事は、他人も嫌に決まっている(マゾじゃない限り)ねえ、浮気されたら、された側は苦悩が生じる。自分がされてヤなことは、他人に対し、絶対しない。これが健全な人間関係の基礎でしょ?引いては社会を継続させる根底だよね?それを十分理解しているのに、欲望(クレーシャ)に負けて浮気してしまった。法を犯してしまった。嘘ついてしまった。盗んだ。奪った。人を傷つけてまで、酷いこと口走った。悪いことだとしっていたが、その時、そうせずにいられなかった。わかっちゃいるけど・・・やめられないこれがサンスカーラなのね。これを普通なんていいますか?「衝動」と言うでしょ。 仏教用語のサンカーラ(巴:Saṅkhāra)、サンスカーラ(梵:Saṃskāra)とはパーリ語およびサンスクリット語に由来し、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである[1]。伝統的に行(ぎょう)[2]もしくは有為(うい)[3]と訳される。 サンカーラには主に二つの意味がある。 一つ目の意味では、サンカーラは一般的に「条件づけられたものごと[4]」「因縁によって起こる現象[3][5]」、有為法をさす[3]。諸行無常として説かれる。 二つ目の意味では、サンカーラは五蘊のひとつ行蘊(梵:Saṃskāra-Skanda)として業をさし、それらは縁起の原因とされる[6]。心の中の「なにかをしたい」という衝動のことであり、その衝動はその直前の状態から生まれているのである[7]。ある行動(karma, 業)を取ることで、その次の行動をしたいという欲求が自動的に現れるのである[7]。 ウィキペディア「サンカーラ」意識さて、先程の 2.受・・・感覚ですよ。何が問題を含むかと言うと、ねえ。「五感」と言うよね?これが感覚であると。五感はい 眼 耳 鼻 味覚 皮膚感覚(触覚)だね。ところが、インドは違うの。全部で6つ有るので「六処」と言います。これが感覚です。六処 6つの情報が出入りする窓しかも感覚を受動と認識に分けて考えます。 六処 接触 感受 眼と映像や色形ね。 鼻と香りね。 舌と味 耳と音 皮膚感覚と熱さや寒さ、痛みや痒みね。「仏教哲学」とか「ヨーガ哲学」など恥ずかしくて口に出せない^^;この辺の話が認知科学や、心理学っぽいのでスマナサーラ師が、やおら「仏教は心の科学」と喧伝します。マウントとりたい訳です^^;俺は迷信的な神や地獄や信仰なんか関係ない、深遠を語るんだ、科学をやっているんだとわたしはこれをちっちゃな虚栄心だと思っています。ねえ、いいですか。それを踏まえ、インドや仏教じゃこれを 眼識 耳識 鼻識 舌識 身識と呼ぶよ。つまり眼と対象との接触、その認識の両方を指してるの。第6の感覚さ、もう分かったね(^^)そう6番目は「意識」なのね。では「意」は何を認識の対象としますか?ねえ、眼は色や形でしょ?じゃあ「意」は何を認知しますか?「わたし」は幻影ここで重要な要件は意識は「わたし」を指していませんよ。でも、ここの意味はわたしや皆さんなの。我思う、ゆえに我あり 僕が僕であるために悟りを求め続け、取り敢えずそれは「愛」だと言った尾崎デカルトが「考える行為そのものがわたしに他ならない。例え、わたしが拘束され、自由を奪われたにせよ、考える行為自体は誰にも取り上げられることがない。私自身が主体的に自由にものを考え、そして考えることそのものは、わたしがわたしである証明である」あー、デカルトにゃ悪いけど、これ間違ってます(^^)が、まあ取り敢えず、これが意識の作用ですね。で、驚くかもしれませんが、この意識が感覚だと言ってる訳です。では一体、何が意識の対象でしょうか?ややこしいので、もう一度いいますよ。普段「わたし」とする意識の働きは「わたし」ではなく、感覚なのだ。と言っている訳です。ではその対象は何でしょうか?と意識は何を感受する感覚なのでしょうか。これが感覚はわたしではない「意識」は感覚であって、わたしではない。識別を担ってる感覚なのね。これは好き、これは嫌いこれは良い、これはだめこれを実感するにはまっすーさんの書籍をよーく読んで実践に入ってね。四念処の一節ね 身 受 心 法が無常に属し、無常は苦に他ならず、苦なるものはわたしではない。と自己は錯覚自分の考えである。というのは錯覚です。簡単なことで、ねえ恋人からプロポーズされた。はい、嬉しい。変な客からクレームが来た。はい、ムカつく。カードを盗まれたはい、不安が酷い簡単に外からの影響を受けてコロッコロっ変化するでしょ?他に容易に左右されるものが、本当のわたしである筈がないよね?しかも、一日24時間で平均6万くらい、影響されちゃ、コロッコロと変化します。ドーナツ・ショップえと、尾崎豊さんはお父様が非常に仏教に傾倒されていたそうで、悟りに関する書籍が幾らか有ったそうです。そして、尾崎豊少年もそれを読むうち、いつしか悟りを求めるようになったそうです。結局、尾崎豊さんは一生をそれに費やしました。尾崎豊さんのドーナツ・ショップには強くその心の動きが語られています。「卒業」なんかじゃ あと何度、自分自身、卒業すれば 本当の自分に辿り着けるだろう? 仕組まれた自由に誰も気づかずに あがいた日々も終わるこれは友人たちの「学校、先生、親たちが世間の常識を盾に我々を縛る」という間違った自由へのアンチテーゼでしょ?友人たちは欲望を自由に叶えることを自由と思ってる。しかし、それは違うと。自己の誤解や過ち、偏見こそが自分を縛っているのだ。その思い込み、観念、偏見を超えねばならない。尾崎豊さんは15歳からそいう詩を書いていた訳ね。気の毒に尾崎豊さんの想いを理解していたファンが殆ど居なかったというの。学校の窓ガラス割ったり、バイクを盗めと言ってる訳じゃないのね。本当の自由とは、 自分が自分を縛ってるのだ。 だから自己の観念から自由にならなければ、真の自由とは言えない。こう言っています。これは悟りを求めているの。ドーナツショップでは「自分の内側の投影が今眼に見えている世界なのだ」そう語りかけていて、煩悩の状態では「どうでも良いことに心が奪われおり、この場合、僕は何も真実が見えていなかった。コンクリートの町並みが寂しいんだよと自分に呟くが、それは本当は自己の内側の寂しさなのだ。僕は真実を探し続けている」詩人だなと思いますね。わたしにはこんなの書けませんね^^;