補完していいかしら(^^) 非ず非ずのアートマン
昨日の記事にちょいと補完。お釈迦様よりも2~300年古い聖人にヤージュニャヴァルキヤって人が出ています。この方「非ず非ずのアートマン」と口にした方で、最初期のウパニシャッドに登場します。Wikipedia「ヤージュニャヴァルキヤ」ある時、奥様の「マイトレーイー(多分、日本の「恵子」とかそのへんに訳されると思う)」がヤージュニャヴァルキヤが出家し、妻を捨てようとした際、「わたしはあなたの財産よりも、不死が欲しい」と言ったことから、ヤージュニャヴァルキヤがそれに応じ、生命の秘儀をこっそり語ったとされる。その際、発された秘儀が「ネティネティのアートマン」であった。意味は「これも我(アートマン)ではない。あれも我(アートマン)ではない。一切が我(アートマン)ではないのだ」これはブッダが常に弟子に語ったのと全く同じだ。曰く因縁相応「スシーマ」より 「スシーマよ、これをどう思うか。色は常か無常か」 「無常です。先生」 「では無常であるもの、それは苦か楽か」 「苦です。先生」 「では無常・苦にして変化する法であるもの、それを『これは私のものである。これは私である。これは私の我である』と認めることは善いことだろうか」 「いいえ、そうではありません。先生」 「受は常か無常か」 「無常です。先生」 「では無常であるもの、それは苦か楽か」 「苦です。先生」 「では無常・苦にして変化する法であるもの、それを『これは私のものである。これは私である。これは私の我である』と認めることは善いことだろうか」 「いいえ、そうではありません。先生」 「想は常か無常か」 「無常です。先生」・・・・・・ 「行は常か無常か」 「無常です。先生」・・・・・・ 「識は常か無常か」 「無常です。先生」 「では無常であるもの、それは苦か楽か」 「苦です。先生」 「では無常・苦にして変化する法であるもの、それを『これは私のものである。これは私である。これは私の我である』と認めることは正しいだろうか」 「いいえ、そうではありません。先生」 「それゆえにスシーマよ、いかなる色、過去未来現在のあるいは内、あるいは外、あるいは粗、あるいは細、あるいは劣、あるいは勝、あるいは遠、あるいは近、一切の色は『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない』とこのように事実の通りに正しい智慧によって見るべきである。 いかなる受の過去未来現在内外粗細劣勝遠近の一切の受は『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない』とこのように事実の通りに正しい智慧によって見るべきである。 いかなる想の過去未来現在内外粗細劣勝遠近の一切の受は『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない』とこのように事実の通りに正しい智慧によって見るべきである。 いかなる行の過去未来現在内外粗細劣勝遠近の一切の受は『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない』とこのように事実の通りに正しい智慧によって見るべきである。 いかなる識の過去未来現在内外粗細劣勝遠近の一切の受は『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の我ではない』とこのように事実の通りに正しい智慧によって見るべきである。 スシーマ、このように見て、聞くことのある聖なる弟子は色も厭患し、受も厭患し、想も厭患し、行も厭患し、識も厭患する。厭患し離貪する。離貪して解脱する。解脱して『解脱した』という知がある。『生まれることは尽きた。梵行は完成した。為すべきことは為した。もはや、わたしにこのような生存は消滅した』と知る。これがヴィパッサナー(観照、または正観で、サマタとの相違は判りますか?)なんだけど。納得出来ましたか?なんか欠けているなと思ったら、今思い出したの^^;以前、このブログを開始した頃ね。わたしはアナートマンについて「非我」というスタンスだったの。その場合「無我」は誤謬であると捉えていましたが、ネドじゅん先生の本を読む内にこう思いました。(今までの自我が消滅したと考えた場合、無我と表現しても誤りとは言えないな)と。そこで 無我・・・今までの自我が消滅 非我・・・真我ではないと、捉え直す事により、どちらも矛盾なく成立するんだというスタンスに、今落ち着いています。今のテーラワーダ仏教は完全なる「無我説(アートマンなど無い)」を採用しています。しかしこれは断滅論としてブッダは退けます。 常見・・・今の自我が永遠に輪廻すると考える立場 断見・・・無我という見解 修行者諸君、この無常世界にあって「完全なる無」というものはありえない。 また同様に、この無常世界において「普遍なる有」ということもありえない。 如来はこの両極にこだわることなく法を説く。あのね、サマタは「いま・ここ・わたし」でしょう?背理法を動員するから正観ところが四念処などで、こう観想するんです。 この肉体は筋肉、内蔵、骨格、筋などで構成され、死ねば肉体は分解され土に還る。 体よ浮けと命じても浮かない。 美人に変われ!と命じても変化しない^^; 生理的法則、物理的法則の方がわたしの願望よりも勝っている。 従って、体はわたしのものと断定出来ない。これはね、哲学で「背理法」という思考法なのね。チベットでは帰謬論証法と呼びます。条件を色々変えても、命題が成立するだろうか?という思考法です。するとご覧の通り「わたしはわたし」という命題が成立しない訳ですよ。結果、わたしはどこにも存在しない。とだから四念処の場合、条件に依存するこれらね。 歳くったり、怪我したり変化する身体 感受(マゾのように苦痛を快感と感じるような趣味嗜好が人により異なる) 心の働き(気分や好き嫌いが、外的要因に左右される) 存在を支える常識的規範(法)これらは幻影だと潜在意識が納得するよう深く修習するわけね。これをお釈迦様はヴィパッサナーと呼んだの。これ、いま・ここ・わたしじゃないの判ります?