8)将軍
三好長慶が河内飯盛山城に移った背景としては、ここもやはり義興に家督と本拠地だった芥川山城を譲ったという事だった。

京に近付いて来た形の長慶とは、今は和解しているように見えても、長年対立してきた凝りもある義輝にとって畠山高政の動きは歓迎される事であった。

その長慶は、本来であれば夏の終わり8月頃にでもと思っていたが、今川進軍の報を受けていた事もあり、畠山高政征伐の為、幕府奉公衆である紀伊の湯川直光に、三好方に味方するよう御内書の発給を求めてきた。

相当焦ってるな長慶。

そう思った将軍義輝は御内書として、湯川直光と六角承禎に宛てて送った。

確かに焦り気味だった長慶の目をかいくぐった御内書内容はこうだった。

『三好長慶を今川義元と共に、成敗‼️😆将軍より』
7)湖北
関ヶ原で本隊と合流した義元は1万5千の軍勢となり、いよいよ近江に入ろうというところだったが、斎藤高政(義龍)交渉と同時に近江の六角承禎に送っていた使者とは別に、湖北の浅井家からの使者が到着したとの事だった。

義元は手を顎髭に伸ばしながら首をかしげ「浅井賢政…ほう、浅井家といえば久政殿であったな。六角家の臣下であったか…し知らんけど。」と呟いた。

近隣国では浅井家の認識は、まさに六角家臣という立場であり、その息子である賢政の認知度はまるで無かった。

まぁ良かろういうことで会う事にしたが、使者とは賢政本人であった。

久政は、琵琶湖に浮かぶ竹生島に居り、現在は賢政が浅井家を代表しているのだが、今川軍に軍勢2千にて従軍を申し出てきていた。

六角氏服従を不満に思っている家臣達が賢政を担ぎ、さらには今川家を後ろ盾に浅井家を再び独立させたいという意味も持っていた。

なるほど、なかなかの気概者だとして義元は賢政に快く従軍を許した。

義元は、六角氏に対抗する為、将軍義輝から許された称号『御屋形様』とたてまつり朝倉家にも書状を出そうとして、既に送るばかりの状態であったが取り止める事にした。

これにて、浅井が朝倉に近付く機会は無くなってしまった。
6) 畿内
義元進軍の報は畿内を駆け回っており、美濃関ヶ原を先発隊5千が通過した時点で、三好長慶は義輝黒幕に気付いていた。

義輝を再び京から追い出そうと企てていた長慶だが、松永久秀だけは暗殺を主張していた…と言う噂が流れていた。

「誰が暗殺好き武将やねん…そんなん物騒な事するわけ無いやんか。嫌に決まってますやんか。」

必死に長慶に言い訳をしていたが、その噂を流した張本人が長慶だった。

将軍という生き物は都を追われても、どこからでも檄文を飛ばし、大名を操れる厄介な生き物だと感じていた長慶は、自分が暗殺の汚名を被るのは避けたいが、暗殺しか道はない、というジレンマを抱えていたのだ。

そんな中、前年に三好家の力を借りて河内高屋城に復帰出来た畠山高政までもが、義元へ使者出しており、それを押さえたとの報告が入って来た。

最盛期を迎え、勢力影響範囲が播磨から摂津、和泉、山城、本国阿波に讃岐と広がり、居城を京に近い飯盛山城に移したばかりで、この急展開に畠山高政の叛旗には冷静さを失い思わず握り拳を久秀に向けてしまった。

「痛!ちょ、なに?長慶殿、どしたんすかぁ…痛いわー…」

全兵力を高屋城に集め、前哨戦として畠山高政を潰し、勢いで義元を迎え撃つ。

将軍の暗殺はその後でも良いかと、今は切り替えた。

(噂のおさめかた…誰か知らんかな…)久秀は西の空に沈む夕日を見て、深いため息をついた。