10)山科の戦い
先の御内書により、畠山高政征伐が可能となる予定よりも随分早く今川軍が迫っていたので、長慶は、やむを得ず高政の抑えに5千を残し何とか2万を率い、京の都に入る直ぐ手前、近江側にある山科という盆地の西側にある小高い200m程の山の連なりに鶴翼の陣を敷いた。

当然今川方にも先鋒の浅井軍が瀬田の橋を渡り始めた頃に、その知らせは届いた。

翌日、逢坂峠を越え山科に入った浅井軍は醍醐寺まで南下し、後続の今川本隊、六角軍を盆地に布陣出来るよう配慮した。

その結果、陽が南に高く昇る頃に今川方の布陣は、標高400m程の牛尾山を背に今川軍1万5千、逢坂峠を塞ぐように六角軍1万、南の宇治に抜ける街道に浅井軍が2千の総勢2万7千となった。

誰もがこの山科本願寺跡を挟んだ睨み合いが数日は続くと思っていたが、急報が三好軍に飛び込んできた。

『畠山高政を囲んでいた長慶の実弟、三好実休が湯川勢に挟み撃ちにされ討ち死』

…何だと…と長慶は声も出せない程の衝撃を覚え冷静さを欠いていた中、中央の本隊が敵の挑発に乗り、突出する格好で突撃を開始してしまった。

これを見た両翼の部隊もそれぞれの正面の敵に突撃を開始したが、海道一の弓取りと呼ばれた義元率いる軍勢に畿内の軟弱な兵が敵うまでも無く、一刻も経たず押し返され始め、一時は山科本願寺跡の土塁の内側に長慶の陣を落ち着かせる事が出来のだが、何と僅か2千の浅井軍が大奮闘の上、これを撃退、総崩れを誘ったのだ。

「こりゃ浅井賢政…どえりゃあ男よ。それから…と、信長様への土産は多い方が良えに決まっとるわな。」

そうつぶやきながら、勝鬨の響く中、利家は馬に乗ったまま義元の幕内に乗り込んだ。

あっという間だった。

後に「槍の又佐」と呼ばれる、その利家の朱槍が義元の首を打ち捨て、そのまま単騎、一直線に東へ駆け抜けていったしまった。










南に高く昇っていた筈の陽は西に大きく傾き、山科の空を薄い橙が染め始めていたのを、今川の雑兵までもが誰も見上げようとはしなかった。