神社とお寺って… | Kaz の景色

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ちょっとした日常の記録

 「神社とお寺って何が違うの?」という日本人による疑問を度々耳にしてきました。ただ、私にとっては何を知りたいがゆえの質問なのかがよくわからないものでして、ずっと疑問に思っていたんです。

 この前、知人夫婦がしている会話で「神社とお寺って何が違うの?」「は?そんなの知らね。服装とか?地鎮祭とかに来てたのは確か神社の人だったような…」というものが。

 他にも、「外国人に神社とお寺って何が違うのかって聞かれて困ったんだけど、さい銭箱があるかないかだ!!って気がついてとっさにそう答えたんだよ。これ、名回答じゃない⁉」と私に言ってくる知人も。

 そうした経験をへて気がついたのですが、ひょっとすると彼女たちは、神社とお寺が全然違う宗教施設だという事をマジで知らないのではないか???という事実に最近気がつきました…。

 

 さて、私自身の理解の整理も兼ねて簡潔にまとめておくと、神社は神道の宗教施設、お寺は仏教の宗教施設で、そもそもの発祥が異なります。

 

 神社は神道と呼ばれる自然崇拝に由来する信仰に基づいた施設で、神様を祀る場所です。神道には教義や教祖が存在していません。そのため、誰かの教えに従った仏教やキリスト教などのように「教」の字はついていませんが、歴とした宗教施設です。

 めっちゃ簡潔にまとめると、神道は自然崇拝や太陽神崇拝に基づいた古代宗教の形を整えたようなものといったイメージ。なので、神社が中心となって行う行事は農耕のサイクルに合わせたものが多く、地鎮祭のように大地に手を加えるときには神様にお伺いを立てるので神社の管轄になりますし、田んぼの水入れなど農耕作のはじめには無事に実りが得られるようにと神主さんを交えて神社でお願いをしたりします。何の神様がその神社に祭られているのかは、土地や神社によって異なります。なにせ多神教ですので。神道について詳しく知りたいなら、山蔭基央の著作『神道の神秘――古神道の思想と行法――』(春秋社) にもっと詳しいことが書かれています。この本は宗教文化に詳しい知人に紹介していただいたのですが、なぜ神社では葬式を行わないのかや神道特有の死生観などが非常に面白かったです。

 

 一方、お寺は仏教の施設で、ブッダの教えを教義として定めているものです。特に人間の苦悩に対して焦点を当てた信仰で、人間の魂の昇華に重点が置かれています。この部分はキリスト教とも類似しているでしょうね。そして仏教はブッダの教えを基に開かれたものですが、細かい規律の定めやブッダの教えのどの部分を重視するかで宗派の違いが出ています。なので、人間の人生に関連するイベント(葬式や法事など)は仏教で行われることが多いです。

 

 

 ちなみに私の実家は、敬虔な仏教徒でした。私も多少その影響を受けていて、神社などの信仰が異なる宗教施設に行って参拝することには抵抗を感じますし、十字架のアクセサリーを贈られてもかなり戸惑います。過去におつきあいした人で、私がそういうものに抵抗があるという事を知りながらも、無理やり十字架のアクセサリーを贈ってきて、なおかつ身に着けるように強要してきた人がいました。「何度も言ってるけど、そういうのは本当に困るから」と伝えたところ、その人には「ふん、そんなくだらないこと。みんなやってるし。」と一蹴され、悲しい思いをしたことがあります。

 信仰の自由って、他人の信仰を否定・解放し、自由化を強要することではないと思うんですけどね…。さすがにこの人に対しては信仰に関しての感覚が鈍すぎると思いましたし、それ以上に他者の価値観を一切理解しようとしない姿勢からは自分が否定され続ける関係性しか思い浮かばなかったため、人としてのおつきあい自体を遠慮させていただきました。

 

 日本に移住する外国人が増えた昨今、信仰も含めて様々な価値観であふれるようになってきました。そうした他者の持つ信仰や価値観を安易に否定することは、相手の人格を否定することに等しいという事は知っておいてほしいです。時として、信仰はその人の人生や生き方の中核をなす部分にも成り得るものです。それを安易に馬鹿にし、否定することは何を意味するのか、きちんと考えてほしいです。