おまけの八天山(土器山)かわらけやま | ねるねるブログ

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親不孝岩にある口伝板に、支えあう二つの巨岩の隙間をくぐる「胎内めぐり」の事を 「肥前古跡縁起」から引用してあったけどこれがどんな文献なのか分からなかったから、町の図書館へ行ってみた。
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肥前叢書。叢書(そうしょ)とは、本のシリーズの事だって。
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この肥前叢書の中に「肥前古跡縁起」がまとめられていたよ。

八天山に関する内容は、395ページの菩提寺の項にちゃんと記述されてた。
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中でもココロ惹かれた一節は、
「心に偽りなき正直者が土器を取り岩の腹に指し付けると、すぐに付いて暫く離れない」んだって。

逆に、「常に父母に不孝な者は岩に土器を指し付けても付かず、すぐに離れ落ちる」のだとか。

そう言えば…御神体の岩の下、割れた土器がたくさんあったなあ。単に土器を奉納するんじゃなくて、こんな信仰が盛んに行われていたことが、文献から推察できるね。

割れた無数の土器…参拝者は、親不孝者ばかりとでもいうのだろうか。
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中宮菩提寺についても、円仁(えんにん)が建立したとされてるけど…
今度調べてみようっと。
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円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう。 入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。

超有名人やし。

ここから先は、ハ天神社のデータです。長いけど、とても興味深い内容となっております。 読む?

開山
養老5年(西暦721年)奈良の僧、行基により開山されました。
標高426m、山頂には四等三角点標があり、鳥獣保護区に指定されています。
密教伝来により修験者の霊場となっていた事から植林等の開発を免れたため原生林がそのまま残っています。

行基さんはこちら☟
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名称について

八天山
地元をはじめ尊敬者の人々の間では八天山で呼ばれています。これは、奈良時代僧行基により丹波の国愛宕山の御祭神様がもたらされましたが、この御祭神さまより生じられた兄弟神である八体神が天狗の姿に形を変えられお山に住まわれたので八天狗山、やがてそれが縮まり八天山と呼ばれるようになりました。
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あっ間違えた ……(^◇^;)

土器山
密教伝来後修験者の間で呼ばれていた名前で、上宮御神体岩で行われていた行場の跡地から土器(素焼きの皿、これをかわらけと呼ぶ)が出土するため土器山と呼ばれていました。
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八天神社
御祭神 火結之神(ほむすびのかみ)火災除けとして崇敬され、また子預けと称して十五歳までの無病息災の願掛けもある。
祈念祭 一月四日
例祭 十一月二十四日
小祭 月ごとの四のつく日

山頂直下に御神体の大岩が鎮座され八天神社上宮となっています。このような形式を磐境(いわさか)式神社といいます。七合目には中宮菩提寺宮と禊場跡の水場があります。明治維新以前までは修験者の霊山として崇敬を集め中宮は菩提寺として肥前三十二ヶ所の一行場とされ、お籠もりの行が盛んに行われていました。下宮八天神社遥拝所もかつては八天社、宝光坊と呼ばれ修験者や崇敬者のための宿坊となっていました。十一月二十四日の例祭当日は参拝者の方になおらい(お供えを食する)を受けて頂いています。これはかつて宿坊を行っていたなごりです。

お疲れさま~。ほら、ここまで読めばハ天神社と土器山、結構好きになったでしょ?
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親不孝岩上から


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