ピンク・レディーのアルバム「’78ジャンピング・サマー・カーニバル」を聴いている。1978年7月23日に東京・後楽園球場で行った野外コンサート。その模様はこのライブアルバムの他に、日本テレビが収録し「木曜スペシャル」で放送したことは前にもふれた。
 
放送は、コンサートの4日後、27日夜7時30分から8時54分。この日の新聞のラテ欄では、次のように紹介されている。
 
木曜スペシャル
「7万人大集合!完全
独占中継!ピンクレデ
ィー真夏のジャンピン
グフェスティバル‼︎」
▽熱狂の後楽園球場に
モンスター大暴れ‼︎▽
史上初!失神パニック
汗と涙の90分◇8.54N
 
木曜スペシャル
   ★日本 夜7・30
 
二十三日、東京・後楽園球場で行われた「ピンクレディー真夏のジャンピング・フェスティバル」のもようを中継録画でおくる。球場全体に置かれたカメラ十台と、ヘリコプターからのカメラがショーを立体的にとらえる。
二塁ベースを中心とした十字型の特設ステージ。ピンク・レディーがスーパーカーに乗って球場を一周しながら、デビュー曲の「ペッパー警部」から「モンスター」までの持ち歌のほか、話題のディスコ映画「サタデー・ナイト・フィーバー」からヒット曲をメドレーでつづる。ピンク・レディーのバックを、ラスベガス公演で共演したチャック・レーニー(ベース)、ミッチー・ホールダー(ギター)らが担当。
(朝日新聞 78年7月27日付 原文ママ)
 
この頃はテレビ局もかなりいい加減で、コンサート名の「カーニバル」が「フェスティバル」になっていたりする。(ちなみに映像を確認したら、タイトルの字幕は「サマー・カーニバル’78」と出ていた。こちらは惜しいことに「ジャンピング」が消えてしまっている。)あと、どうせアオリ文句だとわかっていても、「失神パニック」が気になるところである。
 
ちなみにこの日のゴールデンタイムは、テレビをつけると、どこかのチャンネルにピンク・レディーが必ず出ているという、すさまじい人気ぶりであった。夜7時から「UFOセブン大冒険!」(TBS)、7時半からは「木曜スペシャル」、9時から「ザ・ベストテン」(TBS)。さらに今では考えられないが、「木曜スペシャル」の裏では、同じ7時半から彼女たちの冠レギュラー番組「ハロー!ピンク・レディー」(東京12チャンネル)が放送されていた!まだ家庭用ビデオの普及率が2%になるかならないかの頃、ファンの多くは裏番組を録画することもできず、さぞ困惑したことだろう。
 
さて、「木曜スペシャル」の紹介記事では彼女たちの持ち歌のほかに、映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のヒット曲メドレーを取り上げている。ちょうど日本での映画公開のタイミングだったこともあり、このメドレーがコンサートの大きな目玉だったことは間違いない。ライブアルバムでは7曲目(LPレコードではB面1曲目)に収録されている。今回はこのトラックから。
 
(画像は「Singles Premium 」DVDから引用。以下同じ)
 
7:メドレー
a)ステイン・アライブ
b)愛はきらめきの中に
c)恋のナイト・フィーバー
 
トータルで7分半弱のメドレー。3曲とも77年にリリースされた「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックに収録されている。言わずと知れた世界的スーパーグループ、ビージーズ(Bee Gees)の曲で、サウンドトラックも記録的な成功を収めたが、それぞれがシングルとしても大ヒットした。メドレーでは3曲とも英語でカバーしている。
 
a)は映画の主題歌<Stayin’ Alive>。主演のジョン・トラボルタが右手を突き上げてポーズを取っているキービジュアルとともに、この曲の<♪Ah, ha, ha, ha, stayin’ alive, stayin’ alive>という耳に残る繰り返し部分が、映画のヒットとともに日本でも当時すっかり有名になった。
 
恥ずかしながら、当時田舎の中学生だった僕たちは<Stayin’ Alive>なんて気の効いた英語は知らなかったので、映画のタイトルからの勝手な思い込みで、この部分を<♪ア、ハ、ハ、ハ、サタデーナイト、サタデーナイト>と間違って歌っていたように記憶している。
 
映画の日本公開日(7月22日)が、このピンク・レディーのコンサートの前日であったことは前にも書いたが、実は公開日当日、同じ後楽園球場では西城秀樹さんがライブを行っていて、一足先にこの曲を披露している。さすが洋楽のヒデキである。つまり、後楽園球場ではピンク・レディーの追加公演も含めて、3日続けて人気歌手が「ステイン・アライブ」を歌っていたことになる。このことが、日本を席巻した「サタデー・ナイト・フィーバー」ブームに勢いをつけたと言えなくもない。
 
この時のステージには、多くのダンサーたちが登場。男女がペアになって周囲で踊る中、ミーちゃんケイちゃんも上半身を何度も反らしたり、例の繰り返し部分では<♪Ah, ha, ha, ha>の一拍ごとに素早く左右に向きを変えたり、かなり激しい振り付けで躍動しながら歌っている。ケイちゃんの低音を生かした2人のハモりもぴったり決まっていて、デュオとしての実力を感じさせる。
 
 
 
メドレー開始から2分37秒で、曲はb)へ。原題は<How Deep Is Your Love>。この曲自体はディスコ調ではなく、初期のビージーズの作品に近い、甘いメロディーと美しいハーモニーで聴かせる耳に心地よいバラードである。
 
アメリカでは映画の公開は77年12月、サウンドトラックの発売は同年11月だったが、この曲はそれらに先駆けて9月にシングルリリースされた。日本盤も12月に発売されているが、この時のジャケット裏の解説には「現在のところこの映画が日本で封切られるかどうかは決まっていません」と書かれていたりする。
 
ステージ上からはいったんダンサー達がいなくなり、2人だけに。ステージから突き出た花道を、ケイちゃんは三塁側、ミーちゃんは一塁側方向に歩きながら、静かに歌い始める。ケイちゃんは、右手でマイクを持ち、左手でコードを掴んで二の腕に引っ掛けつつ絡まないように捌いている。ケイちゃんらしくて可愛い。
 
2人の歌声に途中から女性コーラスも加わり、ビージーズのオリジナルとはまた違って、女声ならではの華やかさがある。曲の後半で2人は再び中央のステージに向かう。
 
 
メドレー開始から4分5秒で、曲はc)に。原題は<Night Fever>。アメリカでは映画公開の直後、78年1月にリリースされた。日本盤(邦題は「恋のナイト・フィーヴァー」)は5月に発売されたが、映画が日本で封切られた7月には、日本の楽曲に混じってオリコン週間チャートの20位以内にランクイン、8月には最高4位を記録する大ヒット。この曲もまた<♪ Night fever, night fever>という繰り返しのフレーズが有名になった。
 
「フィーバー」はこの年の大流行語(当時、新語・流行語大賞はまだなかったが、もしあったら間違いなく大賞の有力候補だっただろう)となったばかりか、今ではパチンコ関係のみならず、日本語の中にすっかり定着している。ちなみに2017年の新語・流行語大賞にノミネートされた語の中に、史上最年少棋士となった藤井聡太さんに絡めた「藤井フィーバー」があった。
 
だいぶ横道に外れてしまったが、コンサートではステージ中央に戻った2人に再びダンサー達が加わり賑やかなパフォーマンスが繰り広げられる。ミーちゃんケイちゃんの振り付けは、一定のパターンを繰り返すもの。右手を突き上げる動きは、例のトラボルタのキービジュアルを模したものかもしれない。
 
だが、何しろ映画は前日に日本で公開されたばかりで、振り付けの土居甫氏も、事前に映画の中で踊られているダンスの情報を得て参考にすることは難しかっただろう。
 
ただし、ケイちゃんの回想(増田惠子さん著「あこがれ」)によると、土居センセイは「ペッパー警部」の振り付けをしていた頃「弟子のケンちゃん」を新宿のディスコに派遣し、黒人などのダンスを研究していたそうである。なので、もしかしたら、この時の振り付けにも当時の新宿あたりのディスコの流行が、反映されているのかもしれない。
 
ともかく体力的には相当ハードだったと思われるが、笑顔で楽しく3曲メドレーを歌い上げたミーちゃんケイちゃん。最後はステージの中央で、2人向かい合い、右腕を互いの身体に絡めるように交差させ、魔法のようにくるくると回って鮮やかにポーズを決めた。
 
 

8:ビートルズ・メドレー
 
メドレーが続く。世界に最も影響を与えたバンドと言われるビートルズ(The Beatles)の楽曲のお馴染みのフレーズをつなぎ合わせ、当時流行のディスコ調のアレンジで歌うという企画。コンサートの編曲を手がけた前田憲男氏による書き下ろしである。
 
演奏時間は、約5分弱。その中に実に多くの曲が詰め込まれている。アルバムの歌詞カードによると、楽曲は次の通り。
 
(1)ヘイ・ジュード
(2)デイ・トリッパー
(3)ゲット・バック
(4)バック・イン・ザ・U.S.S.R
(5)抱きしめたい
(6)レディ・マドンナ
(7)ヘルプ!
(8)イエスタデイ
(9)イエロー・サブマリン
(10)オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ
(11)ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ
(12)ミッシェル
(13)ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ
(14)ペニー・レイン
(15)ヘイ・ジュード
 
この内(2)は伴奏のフレーズのみで歌はない。また実際には(12) と(13)の間に「オール・マイ・ラヴィング」が歌入りで挿入されている。
 
2人は各曲の英語詞をそのまま歌っているが、合間に前田氏がつなぎ用に作ったオリジナルのフレーズが3回挿入されていて、そこでは次の歌詞がつけられている。
 
♪Singin’ with the Beatles
  Dancing on the disco
  Twistin’ in the 60’s 
 
このメドレーに関しては、残念ながら映像が確認できないため、どのようなパフォーマンスが展開されたのか不明だが、歌詞から推察するとディスコダンスのみならず、ツイストも振り付けに加えられていたのかもしれない。
 
アルバムを聴くと、ミーちゃんケイちゃんは何事もないように歌っているが、元々バラバラな15曲のさわりだけを次から次へとパッチワークのようにつなげた特殊なメドレー、曲の順番や英語の歌詞を間違えないで、しかも振りをつけて歌うのは、かなり大変だっただろう。
 
このメドレーのように、多数の楽曲の印象的なフレーズを「いいとこ取り」して、16ビートのディスコアレンジでつなぎ合わせるという手法は、この少し前から日本の音楽界でちょっとした流行を見せていた。
 
最もヒットしたのが、76年暮れにスタジオミュージシャンたちによるプロジェクト、マイナー・チューニング・バンドがリリースした「ソウルこれっきりですか」である。山口百恵さんの「横須賀ストーリー」をはじめ、この年に売れた歌謡曲13曲のフレーズをメドレーにした。ピンク・レディーも「チャレンジ・コンサート」で少しだけカバーしている。
 
 
アレンジを手がけたのは<J.Diamond>、今年亡くなった筒美京平さんの変名である。またスタジオ録音時のボーカルは、この後楽園のコンサートでもバックコーラスを務めた伊集加代子(現・加代)さんだった。最初はいわゆるイロモノ、企画モノ的な扱いだったと思うが、77年1月にはオリコン週間チャートで2位にランクインするまでになった。
 
その成功を受けて、その後グループサウンズをメドレーにした「ソウルこれっきりですよ」とか、ベンチャーズの楽曲をメドレーにした「ソウル・テケテケテケ!」とかも登場した。海外でも例があったのかは知らないが、日本人にはこういう「いいとこ取り」スタイルが好まれるのだろうか。ディスコサウンドではないが、演歌をメドレーにした「演歌チャンチャカチャン」も、77年暮れから78年初めにかけて大ヒットしている。
 
またまた脱線が長くなってしまったが、要はこのビートルズ・メドレーも「ソウルこれっきりですか」のビートルズ版みたいなものだ。だが、なぜ78年夏のピンク・レディーのコンサートで、ビートルズを取り上げたのだろうか?
 
例えば今年2020年は「ビートルズ解散50年」であり、つい先日の12月8日は「ジョン・レノンの死去から40年」ということで、改めてビートルズが注目された。78年にもこういった類いのことがあったのか。記憶をたどっても全く思い当たらなかった。
 
そこでネットで調べたところ、一つ理由として考えられるものが見つかった。78年の夏、ビートルズのコンサート映像などを交えたドキュメンタリー映画「ザ・ビートルズ グレイテスト・ストーリー」(78年アメリカ、原題:The Beatles As They Were)が日本で公開されていたのだ。ある映画専門サイトでは公開日は8月5日となっているが、某オークションサイトにあった大阪ミナミの映画館のチラシには7月22日から上映と記載されている。「サタデー・ナイト・フィーバー」、「アバ/ザ・ムービー」の日本公開と同じ日である。
 
つまり、この「’78ジャンピング・サマー・カーニバル」で歌われた洋楽カバーの選曲にあたって、PLプロジェクトは同時期に日本で公開されて話題になることが予想された3つの音楽映画を意識していたと考えられる。
 
後楽園球場から始まって9月までに全国約30か所を回る夏のコンサートツアーで、彼女たちがビージーズやABBAやビートルズを歌えば、夏休みに各地で上映される新作映画との相乗効果によって、一層の盛り上がりが期待できたのだ。
 
この時期のピンク・レディーは、それくらい大きな存在になっていた。前年の「チャレンジ・コンサート」や「サマー・ファイア’77」では、洋楽カバーのラインナップも自由度が高いというか、PLプロジェクトの誰か(相馬一比古氏や飯田久彦氏など?)の個人的趣味ではないかと思われる個性的な選曲も多くなされていたように思う。
 
しかしこの78年夏のコンサートでは、業界の様々な関係筋の思惑も入って、結構ガチガチな感じで戦略が練られているような印象を受けるのは、考えすぎだろうか?
 
また以前のライブアルバムでは、洋楽カバーは岡田冨美子さんによる日本語詞で歌われることが多かったが、この時は英語で歌う曲の比率が高くなっている。当然、アメリカ進出を見据えてのことでもあったろう。前にも書いたように、後にアメリカでのプロモーション契約を結ぶポール・ドリュー氏が会場に来ていた事実もある。
 
だがそのこと以上に、ミーちゃんケイちゃんたち自身、4月にラスベガス公演を経験したことで、プロのエンターテイナーとして英語の曲にさらに力を入れたいというモチベーションが育っていたように思う。強い意欲を持って英語曲に臨んだことが、この「ビートルズ・メドレー」からも感じられる。
 
一方で、女の子の本音をストレートに表現する自由奔放な岡田さんの日本語詞が、特に初期の頃のピンク・レディーのピチピチとした瑞々しい魅力とマッチしていただけに、岡田さんの出番が少なくなったのは、寂しい感じもする。
 
岡田さんは、翌79年の「ピンク・タイフーン」で初めて彼女たちのシングル曲の作詞を手がけることになるのだが、ピンク・レディーにとってはファーストアルバム以来、阿久悠氏と同じくらい大事な作詞家であったことを改めて強調しておきたい。(続く)