建築家の藤森照信さんの「フジモリ式建築入門」を読んでいたら、”美”について、面白いことが書いてありました
明治の新政府に雇われたイギリス人建築家コンドル先生が明治10年1月来日し、工部大学校造形学科(現:東大工学部建築学科)の初代教授としてやってきた時、辰野金吾など4名の学生に最初の授業で語り、パンフレットにしてまで残したのは、
”建築の本質は実用ではなく美である”
という一言であった。武士の子として四書五経を学んできた4名の学生だけでなく、当時の日本人にとって”美”とはなんとも理解しがたかった。もちろん、狩野派の絵や浮世絵、あるいは仏像、社寺、さらには野山を眺め味わうことは混んでしてきたし、絵も彫刻も建築も自然も世界屈指のレベルを誇っていたけれど、それらを眺めたときに生ずる視覚的印象はそれぞれ違うものだと思っていた。狩野探幽の絵ならうまいとか、歌麿の浮世絵はつやっぽいとか、運慶の仏像はこうごうしいとか、伊勢神宮はかたじけないとか、富士山はうるわしいとか、それぞれ別のものと思っていた。それが、”美”の一字で言い表せるとコンドル先生は語った。(p.25-6;強調わたし)
近代までの日本には、”美”という抽象概念がなく、具体的なモノへの形容詞として「美しいモノ」を把握していたようです。
この「抽象概念」って、古代ギリシア人が発見したもので、ヨーロッパの思想に受け継がれているんですって。
「概念」って意味を調べたら、「〜とは何か?」という、抽象的で独立した「意味」そのものらしいです。
ってことは、「”美”という概念」って単に「”美”とは何か?」を言い換えてるだけに過ぎなくない…?
「美」=これです、という確固としたものがあるのではなくて、あくまで、「美」=()ってこと?
ある意味、空欄の()に何が入るか、問題提起してるだけでは。
そう考えると、わたしがブログで書いてることも、”京都”、”自分”、”愛”etc「とは何か?」って問題提起してるだけと言えるかも。
正解はないのだから…。
(ポエム書いてます笑↓)
さらに言えば、”神様”だって、概念ですよね。
西洋のキリスト教は、実は”神様”「とは何か?」という問題提起をしてるだけとも言えないだろうか。
神様=()だから、偶像崇拝しちゃいけないという教えがあるのでは。
一方、偶像崇拝(具体)の日本に来ると、神様=
やあ、みんな!
…って感じ?(明るくて良き。🤣)
※今、上の文章で(具体)って書いたとき、芦屋の「具体」美術協会の意味がわかっちゃった
西洋の「抽象」に対するアンチテーゼだったんだ!
ところで、この間出会った、20歳の哲学好き女子によると、「〇〇とは何か」みたいな問題(概念を問う問題)は、哲学界隈で「とは何か」系と分類されるそうです。
「哲学カフェで『とは何か』系やっちゃうと、議論が発散しちゃうんですよね〜」
と言っていました
ま、ま、実際そうなんだけど。
ただ…
その言葉の指し示すものは、何もない、でもその上で、一緒に考えようよ、っていうのが「概念」という言葉なのかなあと思いますね
⚠️反対に、本当は「何もない」のに、まるで「何かある」という風に使われることもあるから、要注意です⚠️