高校の現代文の教科書にあった、清岡卓行さんの「ミロのヴィーナス」という評論、覚えていますか?
ミロのヴィーナスが魅惑的であるためには、「両腕を失っていなければならなかった」。
なぜなら、その失われた腕という「無」こそが、(想像力で補うことのできる)完全な美であり、もし復元してしまったら、「限定された有」へと変化してしまうからだ。
…というような内容でした。
ご存知ない方はすみません
Wikipediaより
高校時代アメリカに住んでいた私も、現地校がお休みの土曜日に通っていた日本語補修校で、この文を読んで、こういう見方があるのか!と、いたく感銘を受けたのを覚えています。
その後美術論に興味を持つきっかけとなった思い出深い文章です。
なのに、昨日の夜お風呂に入りながら、全然べつなことからミロのヴィーナスのことを考えていて、ふと、わかっちゃったことがあります。
この評論、めっちゃ間違ってる…。
ヴィーナスの腕の欠損という、「無」に美を見出すのは、日本独特の感性であって、「余白」や「間」という何もないところに無限の可能性を見出す、抽象的な記号からいかに想像力を駆り立てるかを美の基準にする、そういう芸術の見方なんです。
一方で、この彫刻が作られたギリシャ時代、そしてその流れを汲む西洋美術は、「いかに美を有るものとして表現するか」がテーマなんですよね。
ミロのヴィーナスは、「無いこと」ではなく、その造形の「有ること」によって、美しい。
その「有るもの」とは、究極の「美」である。
それが、作者の意図であり、表現したいことだと思います。
その背景には、ギリシャ哲学があるし、フランス革命下で開館したルーヴル博物館にしたって、その収蔵の意義としては、自分たちはギリシャ哲学の正統な後継者という自負があるわけで。
ルーヴル開館と同じ時期に建てられたパリの現・マドレーヌ寺院。
革命軍の栄光の神殿として建てられたが、後年カトリック教会へ転用された。
Wikipediaより。
この評論が書いているのは、ミロのヴィーナスについてではなく、秀吉時代に、朝鮮で拾ってきた、なんでもない欠けた茶碗を「美しい」とした、日本の美意識(茶道)です。
芸術の受け取り手がどんな感想を持つのかはもちろん勝手だけど、対象についての評論ならば、それがその作品の表現したいこととは全く違うし、ファクトに基づいていない、ということは重大な誤謬です。
(教科書では、評論の扱いだったけど、単なるフィクションだったのか。)
この方のほうが、ちゃんと作品を見ている。
続きもどうぞ↓