※タイトルだけ変えました(2024.2.7)

 

都七福神巡りのレポートの途中ですが、先日の天台宗僧侶の性暴力のニュースが気になって。

 

 

七福神巡りの最後は、性暴力に加担したと咎められている大阿闍梨が護摩供養をするお寺でした。

 

被害者の記者会見があったのは、1月31日。

その数日前の28日、七福神巡りの最後の御朱印をいただくために、比叡山・延暦寺の別院である赤山禅院へお参りしていました。

現地に着いたら、たまたまその日は護摩供養の日に当たったらしく、あと30分後くらいに始まるとのこと。

 

2月のですが、お寺に貼り出してあったスケジュール↓

 

 

 

 

うさぎクッキー「ラッキー音譜これは神様の思し召しかも!?」

 

と思って、予定時間の1時半まで待っていたのですが…。

時間になっても始まらず、関係者らしき人に聞いたら、「大阿闍梨は、今比叡山の別院を出られましたので、30分後くらいに到着します」と。

残念ながら、次の予定があったので、結局お加持は受けられませんでした…。

 

このニアミス(?)のあと、性暴力のニュースが出たので、身近に感じてしまっています。

 

ここで着目したいのは、大阿闍梨自身は、少なくとも最初の段階で、なにか悪いことをしたという認識はないのでは?ということです。

むしろ、愛弟子を想って、被害者の女性と引き合わせたのではないでしょうか。

 

自分と自分の仲間以外は、自分の正義を実現する「道具」として扱ってしまう。

 

女性を傷つけることになるだろうと考えが及ばなかった?

報道によると、女性が被害を訴えようとしても、向き合わず、お金を渡すことで済ませようとしたみたいです。

 

(要は、室町時代から続く男尊女卑の典型では💦)

 

 

このような事態を招くということは、失礼ながら、自分のしたことに対する、メタ認知ができないのではないかと思いました。

 

これは、主観的になりがちな宗教者の最大の欠点だと思います。

 

主観と客観を一致させるのが修行だとすれば、大阿闍梨ほどの人でも「修行が足らん!!」と言うことなのか、それとも、修行のやり方がそもそも間違っているのか…?

 

科学的見方一辺倒になりつつある現代で、宗教にも役割があると思っているので、とても残念に感じたニュースでした。

 

 

話違いますけど、京都に通いだしてまだ2−3年ですが、事件にニアミスする確率が高い気がします…。

「お寺の池に水死体発見!」のニュースがあった前日に、そのお寺通っていたりとか…。

 

公になってないのも含めて、お寺の中では、もしかしたらいろいろ事件が起きているのではないでしょうか。笑