ミロのヴィーナス像の、その「腕がないこと」に「美」があると書いてあった、高校教科書の美術評論。
当時のギリシャ文化の中では、「腕がないこと」なんかに意味はないんだと気付き、愕然としました
…というところまでが、先日までのお話しです。
で、著者の清岡卓行さんが、この評論を書いた背景がわかりました。
犯人は、君だ
近代日本における美術史学研究の開拓者で、英文による著作での美術史家、美術評論家としての活動、美術家の養成、ボストン美術館中国・日本美術部長といった多岐に亘る啓発活動を行い、明治以降における日本美術概念の成立に寄与した (Wikipediaより)
岡倉天心は、著書の「美術史」(1891)の中で、こう言ってるんです。
要は、実物そのままの写生ではなく、精神的なところに「美」が存在する、と。
物質的に日本より豊かな外国へ行って、日本人としての矜恃を保つためのレトリックだったような気もするけど…。
この「ミロのヴィーナス」の評論は、そんな精神論を引き継いだものだと思われます。
きっと高校生のわたしもアメリカに住んで、日本人としてのプライドを保ちたかったから、この評論に惹かれちゃったんだろうな。
そういえばちょっと前、英語版のTIME誌に、どこかの日本の保険会社の社長が"Bushido capitalism(武士道-資本主義)”というのを打ち出していたけれども、それもおんなじ気持ちでしょうか。
外国人は、武士道といえばハラキリとセットだと思ってるけど、社長さん、大丈夫そ?←株価落ちたら切腹するつもりだとか思われそうだけど…笑