波乱万丈なわたしの人生の「闇の部分・波乱な出来事」を振り返る物語


48話目の今日は


息子とも離れて暮らすようになった頃のことについて。



と書きつつ

 

なんか

 

幼少期からずっと波乱な人生で

 

振り返って書いてると

 

「わたしの人生っていったい何なの⁉️」 

 

とかなりヘビーになってくる泣き笑い

 

 

でも47年分は書き終えたから

 

あと13年分。

 

もうちょっとがんばろー。

 

まぁここからが更にド波乱になるから

 

ドヘビーではあるけど悲しい

 

 

ずっとお読みくださってる皆さま

 

ありがとうございます。

 

 

前回の記事はこちら↓


 

まず

 

なんで息子とも離れて暮らすことになったか。

 

 

わたしが

 

息子が小学校を卒業するタイミングで東京に戻る

 

と決めていて

 

でも息子は

 

「静岡の中学校でサッカーしたい」

 

とゆーので

 

「んじゃアンタ下宿してその学校に通いな」

 

って言って

 

 

離れて暮らすことになった。

 

とゆー

 

ある意味シンプルな流れ。

 

 

ではあるが。

 

 

なーんかですね

 

わたし

 

息子が5才ぐらいの頃から言ってたんですよ。

 

「ママは小学校までしかアンタを育てないから

 

そのあとは自分で生きていき」

 

って。

 


息子のことはだーい好きで

 

可愛いくて可愛くて仕方ないのに

 

ここでもまた

 

「ずっと一緒にはいられない心の癖」が出て

 

離れようとする。

 


で 

 

息子も息子で

 

初めてそれ言われた時から

 

「うん、わかった」

 

とだけ言って小学生時代を過ごし

 

当たり前のごとく

 

サッカーが強くて下宿か寮生活できる中学校に進学。

 



 

でも息子は絶対

 

すんごーい我慢してたでしょうね。

 


そしてわたしもわたしで 

 

息子と離れたあたりから 

 

混迷の様相が深く濃くなって行ったので

※その時はそんな風に思わなかったけど

 

なんとしても一緒にいるべき子供たち

 

であったのですよね。

 

後悔先に立たず ですが。

 

 

てなことで

 

次回はその

 

混迷を深めていった時期

 

のことを書こうと思ったのですが!

 

ありましたありました。

 

ひとつ「事件」が。

 

それは次回のお楽しみ^_^

 


卒業式でこんななってるぐらいだから

どこで生きてても大丈夫なヤツなのだと改めて思った爆笑

 

 


波乱万丈なわたしの人生の「闇の部分・波乱な出来事」を振り返る物語

47話目の今日は


娘をパパさんに渡して

 

息子と2人だけで暮らした1年間のお話です。

 


前回の記事はこちら↓


 

それはそれは

 

楽しくて幸せな1年間でした。

 

もちろん娘がいない寂しさはあったけど

 

いつも娘にかかりっきりで 

 

息子には色んなことを我慢してもらってきたので

 

息子にだけ時間を割いてあげられることや

 

2人だけに流れていく時間が

 

何よりも何よりも幸せでしたピンクハート



そして息子ってかなりオモロい事言える子なので

 

ちょっと話しては笑いころげ

 

またちょっと話しては笑いころげる。

 

そんなわたしを見ていると

 

息子はどんどん嬉しくなるよーで

 

さらにどんどんオモロい話をかぶせてくる。

 

ホント

 

生まれてから12年間の我慢を

 

ぜーんぶここで消し去った。


そんな感じのステキな一年間でした。

 

 

ただやっぱり

 

息子は寂しかったんですよね。

 

本当のパパより大大大好きだった

 

お父さん(二代目旦那さん)がいなくなり

 

今度はちっちゃい頃から

 

双子のように仲良くて大大大好きだった

 

おねえちゃんまでいなくなった。

 

 

だからある時突然

 

小さーな声でポツンと

 

「俺んちは 

 

ひとりひとりいなくなる。。」 

 

と言ったことがありましたね。

 

わたしにとっても

 

息子にとっても

 

福岡で過ごした「第1目母子家庭生活」に続く

 

幸せで宝物な日々ではありましたが。

 




 

そんな一年を過ごし

 

今度は息子とも離れる事に。

 

その話は次回書きますね。

 

To be continued 飛行機


波乱万丈なわたしの人生の「闇の部分・波乱な出来事」を振り返る物語

46話目の今日は


娘を手放すことにした本当の理由について。



前回の記事はこちら↓



娘が中2で不登校になり

 

「わたし一人ではもう面倒見きれない」

 

そう思って

 

パパさん(初代旦那さん)に引き取ってもらうことに。

 

 

娘と息子に話した時

※それぞれ別々に話した記憶

 

2人はとても仲良しだったから

 

とても嫌がったかな。


 

特に娘。


そりゃそうですよね。

 

何よりも大好きなママと弟と離れるのですから。

 


 

しかも少しの間だけでなく

 

「もうパパんちの子になる」

 

のですから。

 

 

でも2人ともとっても気を使ってくれて

 

長くゴネることはせず

 

受け入れてくれました。

 

 

そして娘がパパさんちへ行く日。

 

浜松駅から1人で新幹線に乗って行くことにしたから 

 

ホームでバイバイ👋

 

ちょっとお葬式みたいな空気だったけど

 

なんとか笑顔で乗り切る娘

 

そして息子とわたし。

 

 

でもパパさんちに行って1カ月ぐらいが経ったころから

 

娘が家で暴れるようになったというから

 

娘にとっての負担とか

 

我慢してた大きさとかが

 

どれだけのものだったか

 

他人事のようだけど

 

よくわかります。

 


 

そんなこんなのわたしの思考や行動も全て

 

わたしが育った環境や

 

わたし自身が生まれもった障害っぽい性質が原因。

 

 

結局

 

「人としてのキャパ」

 

が狭すぎたんですよね。

 


だから娘の障害をしっかり受け止めるられなかったし 

 

何か問題があっても

 

それに対して冷静に対処することができない。 

 

 

そしてキャパ狭いから

 

人と一緒にいると苦しくなって

 

1番大切な子供たちさえ手放してしまう。

 

 

そんな自分の内面を思いながら

 

昨日から娘を手放した話を書いてたら

 

父と母に

 

「わたしの人生返してよ」 

 

とものすごく言いたくなった。 

 


けど それも

 

「わたし」

 

なんですよね。

 

 

子供たちに 

 

手放したことを「ごめんね」というと

 

「なんで謝るの?いいのに」 

 

と言ってくれたり

 

「あなたと一緒にいる方が悲劇だから(笑)」 

 

と返してくれたりするから救われてるけど

 

生まれ直して

 

2人の親

 

もいっかいちゃんとやりたいな 

 

と思うこの10年なのでありました。

 


次回は 

 

娘をパパさんに渡して

 

息子と2人だけて暮らした一年間のことについてです。 

 

To be continued 飛行機

 

娘がパパさんちへ行った日。

 

波乱万丈なわたしの人生の「闇の部分・波乱な出来事」を振り返る物語

45話目の今日は


娘を手放すことにした時のお話です。


 

前回の記事はこちら↓


 

娘が中2で 

 

3学期の終わりごろだったかな。

 

「あ〜もう無理だなぁ。。」 

 

と思ったの。

 

 

ずーっと大変だったんですよね。

 

保育園や小学校中学校で色々ヤラかすもんだから。

 


保育園と小学校では

 

特別支援学校にいたことのある先生を担任にしてくだって

 

その先生方がホントーによく面倒をみてくださったので 

 

なんとかやっていくことができていました。


でも中学校では担任がそんな方ではなかったから

 

問題がどんどん大きくなっていって

 

中2の2月からついに不登校に。

 



 

そして多動だから家にいてもじっとしてられなくて

 

「構ってかまってビーム」バシバシ飛ばしてきて

 

ひたすら出かけたがる。

 


でもわたしは仕事で大忙しの日々。

 

おまけに3月中ごろから4月終わるまでは

 

一年でいちばーん忙しい時期に突入し

 

ご飯作る時間さえ無いような日が続く。

 

そこにプラスして

 

下の子のサッカーのお迎えが 

 

往復1時間半ぐらいかかる場所。

 


 

「もうムリ。。。悲しい


 

そしてパパさん(初代旦那さん)に相談。

 

パパさんちならおじいちゃんおばあちゃんがいるから

 

不登校で家にいても

 

面倒見てもらえるだろうし

 

とか

 

パパさんは子供たち大好きだから

 

逆にその方が喜ぶだろうし

 

なんて

 

勝手に考えて連絡しました。

 

 

すると最初はパパさん驚いて

 

「いきなりはムリだろー!

 

せめて来年からにしてくれ」

 

と言っていたけど

 

わたしがもう限界に達していたので

 

「いきなりじゃなきゃムリだろー」

 

と返してゴリ押し。

 

そしたら

 

息子が来年小学校を卒業するから

 

「息子も来年戻してくれるなら」

 

という条件付きでOKしてもらえました。


 

そして娘と息子に話す日が。


 

そこから先はまた次回書きますね。


To be continued 飛行機

 



波乱万丈なわたしの人生の「闇の部分・波乱な出来事」を振り返る物語

44話目の今日は


父の葬儀での出来事について。

 

まー、これが驚いたんだびっくり



前回の記事はこちら↓『【香山千賀◆波乱万丈物語㊸】ずっと怖くて苦手だった父の死』波乱万丈なわたしの人生の「闇の部分・波乱な出来事」を振り返る物語43話目の今日は父の死について。 前回の記事はこちら↓『【香山千賀◆波乱万丈物語㊷】2度目の離…リンクameblo.jp



葬儀の日

 

祭壇に向かって右から

 

母→姉→私の娘と息子→そしてわたし

 

の順で座った。

 

わたしの隣は一席空いている。

 

きっと父の弟たちの中で

 

1番年上の弟が座るのだろうと思っていた。

 


そしたら葬儀始まる直前に

 

知らないおじさんがそこに着席。

 

きっと父が懇意にしていたお友達か

 

地域の会長さんみたいな方だろうと思ってた。

 


が❗️


葬儀が始まり

 

弔辞をいただく場面になったら

 

司会の方がこう言った。

 

「田川市市長 ○○様」 

 

そして隣のおじさんが前に立つ。

 


わたし

 

「は? 市長? 

 

 なんで? なんで?? なんでなーーん!?」

 

 

もちろん父が 

 

1971年の沖縄返還に関わっていたり

 

日本が貧しかった時代に子供時代を過ごして

 

学校に行けなかったせいで

 

文字の読み書きがつたない年配の方々に 

 

読み書き教える「識字学級」というのを

 

ひらいてたりしたので

 

「ちょっとすごい人」

 

なんだろうとは思ってはいた。

 



 

 

でも母から聞く話は全て

 

「浮気しまくってこんな事した。

 

この時は○○な女の人と△△だった」 

 

って話だけだったし

 

お酒飲み始めたらすぐに目がすわって 

 

ベロンベロンになって叫んでる姿とか

 

外で飲んだらよーく知らない人連れて帰ってきてた 

とかとかの

 

「ダメダメおやじ」な姿しか知らなかったので

 

まさか市長さんが参列されて

 

しかもお香典上げに来てくれただけじゃなく

 

弔辞読んでくださるほどの人だったなんて。

 

もうビックリしたのを通り越して

 

葬儀のあいだ中ずーっとずーっと

 

「は? なんで? なんで市長? 

 

この人(父)いったいナニモノやったん!?」 

 

とそればかりが頭の中を

 

グルグルぐるぐる駆け巡っておりました🌀

 

 

で、葬儀終わって帰るとき 

 

タクシーで隣に座った母に

 

「ねぇ、ママ!

 

なんで市長さん来とったん!?

 

なんで弔辞とか読む人やったん!?」 

 

と聞いてみた。

 

 

そしたら母がひとことこう言った。

 

 

「アンタなん言いよーと?

 

パパはすごい人やったんよ」 

 

 

「えーー!

 

だったらそれ教えてよ!

 

わたしゃオンナの話と酒癖悪い話しか聞いたことないやん!」 

 

って言ったけど

 

その翌日から母はまた

 

「パパはいつも浮気してからねー」

 

って話と

 

「酔ーたらワケわからんことばっかりしてからくさー」

 

って話に明け暮れて

 

結局 父がどんなすごいことした人だったかは

 

一度も聞くことができなかったえーん

 

 

あー、ホント

 

父はいったいナニモノだったんだろ。


 

次回は


娘を手放すことにした時の話に続きます。

 

To be continued 飛行機