考察/世界遺産という名の「普通の田舎」 | BLOGkayaki1

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読書記録、環境問題について


080720-1
 先日、UNESCOの世界文化遺産に登録されている「白川郷と五箇山の合掌造り集落」の内の、白川村(岐阜県)へ行ってまいりました。
 やはり世界遺産登録に相応しく、非常によいものでした。合掌造りの大きさといったら、他の農村に比べてやはり特異なものでありましょう。貧しいというのに、豪雪地帯だというのに、何故農民達は、これほど大きな家を建てることが出来たのか。考えてみたら実に不思議なことです。
 そこには社会の共同性、また大家族制というシステムがあったわけです。まさにムラの助け合い精神の文化が、農村の建築技術としてまた景観として体現したわけでございましょう。家そのものが世界遺産に登録された、というよりも、そういった文化若しくは秩序が、世界的に注目されたと捉えるべきなのでございましょう。
 しかしながら、それ以外は全く持って、普通の農村風景なのでした。

 大学時代は鳥取の農村を数多く訪れる機会に幸いにも恵まれておりましたから、よくその風景を目に焼き付けてきたのですが、勿論それぞれ違ったよいところもあれど、基本的にはそれらの景観と共通するものが、白川村にもありました。故に、世界遺産の集落といえども、そこは日本のどこにでもあるような、少なくとも鳥取はよくあるような、集落だったのです。
 だからといってそれがつまらないといっているわけではありません。普通の集落の風景だからこそ、落ち着くものがあってとてもよいことだと思うのです。

 ところが、そんな普通の農村風景に、日本中若しくは世界中から人が押し寄せて、わいわい賑わっている状況というのが、ものすごく奇異に見受けられました。
 勿論過疎化に悩む中山間地域にとっては、まさに理想の姿なのやも知れませんが、それにしても妙なのが、何故わざわざ日本に数多あるはずの「普通の農村」の中で、ここにばかり集中して人が訪れるのか。そこに、まさに世界遺産という「ブランド力」の強さを思い知らされたわけです。
 世界遺産という名の元に、興味をそそられるというのは悪い事ではありませんし、自称世界遺産マニアの私も、例外ではないのです。けれども、名前ばかりが先行して、世界遺産の「価値」というものを分かっている人は一体どれほどいるのだろうか。合掌造りの最も注目すべき(と思っている)合掌材のコマジリの部分を、注目している観光客は皆無でしたよ。

 しかしもっと危惧すべき、といったら大袈裟なのやも知れませんが、この世界遺産の集落を、「普通の集落」と感じる人が少ないのではないか、ということです。さらに極端に言うと、世界遺産の名の元にやってきて、何だ「普通の集落だ」とがっかりする人がいた方が、日本の農村文化はまだまだ健全なのだと思うのです。
 なぜか。それだけ、「普通の」集落が消えつつあるということではないだろうか、もしくは集落の風景若しくは農村文化を知らない人が増えてきているのではないだろうか、と考えられるからです。
 日本の農村風景は、世界遺産に登録された場所が貴重なのではなくて、数多ある集落のどれもが素晴らしく、貴重な遺産であると思うのです。勿論それら全てを保全するのは大変ですが、世界遺産とか文化財や百選などの登録を受けねば保全されないどころか、好いとも思われないのは残念なことではありませんか。

 今年7月初旬、「平泉の文化財」の世界遺産登録が見送られました。それは平泉が世界遺産の価値を持たないというものではありません。世界遺産が増えすぎたから、登録数をセーブする動きに苛まれただけです。
 けれどもここで留意すべきは、世界遺産の「稀少価値」を守るために、世界遺産の数を減らすのではないのです。850以上にもなった世界遺産は多すぎて、段々価値を損ねている、という意見には私は真っ向から反対したいと思うのです。世界遺産は金やダイヤなどの「交換価値」ではありません。また別の視点から、そういう発想は減反政策と同じですよ。その場しのぎの価格調整には役立つけれども、一方で放棄田に担い手不足と、どれだけの問題を後々に残すか。
 白川郷で見た「普通の集落」の風景と同じものを、他の集落でも見てきた私としては、それらの集落も皆世界遺産である、と確信しています。世界遺産は、1万くらいあってしかるべきなのです。現実問題として、保護が大変なので登録しないだけ。そう捉えるべきなのです。
 故に、世界遺産といえども「普通の田舎」、それでよいのでございますよ。