今日、面白い話が出たので、それに付随して思うことをメモっておく。
たぶん、ほとんどの人には意味不明だと思います、すみません。
自分と同じ(ような。似たような)感覚で物事を捉える人…というのが非常に少ない、というのは、ずーっと思っていた。
思い込みではなく、事実だ。
一面、一点を取れば、似ていたり共通したものがあったり、ということはあるけどもね。
そもそも、絶対数が少ないのだ…っていうのも、思っていた。
多数派だの少数派だの…という話は、もう私にはあまり意味を持たない考え方になった。
そんな分類、(私には)意味が無い。
共感、というのも、共通のバックボーンがあってこそ起こる。
共通のバックボーンを持った相手という絶対数が少ないからには、共感がないのは、もう、仕方ない。
それは、自分に「共感する力が欠けている」ということではなくて、共感の要素の分量が違うってことだと今は思っている。
孤独、というテーマの記事を書いて、続きはまた…みたいな〆をしたのは覚えてるけど、その続きは、まだ書いてない。
絶対に、一人になってはいけない…と、何度も言い聞かされた、っていう話だ。
その理由も、意味も、わかる。
けれども、基本的に「孤独と共存する時の質量が大きい」のだってことは、変えられない。
変えたいの?と、問えば。
そうでもない(笑)
ああ…断っておくけども、だからって私が「自立できている」ということではない。
また、自立的である、ということでも、ない。
そこは、残念なところでもある(笑)
共感することを強要される、という関係下にいた期間が長くて濃かったので、その間に作られてしまった「共感力への必要以上の欠乏感」というのが、あった。
その期間に刷り込みされたことというのが、その環境を脱した当初に感じていたよりも遙かに強度が高くて深いところに植え込まれていて、未だにその根が駆除できてない感じ。
もちろん、その期間内に起きたこと、経験値というのは、その環境下でなければ得られないものであったので、ムダとか害だったということはない。
ただ、細っこい雑草が根が深くコンクリートを割っていくようなもので、痕の補修に手間取った…っていうところか。
うん、そう。
まさしく、私の弱点とされた「足下を崩される」というやつだ。
いや~、実際、あの頃はホント、怖かった…
嬉しい、楽しい、幸せ感と表裏一体の、恐怖。
レア経験だったと今も思うけど、通ってきてよかった道筋でもあったな。
読む人にはこの上なく不親切なブログだと我ながら思う。
今年からは、発信の内容を注意して書いて行く…というのを思っていたし、これからも気をつけていくのだけど、自分のための備忘録になると、やっぱり、自分にしかわからない文章になってしまう。
まあ…
たまーーーーーに、そういう駄文でも何か感じ取ってくださる奇特な方もいらっしゃるようなので、UPはします。