昨年9月に一度、グループで参詣しました東寺。
高校の時以来の参詣でした。
とにかく、その時の…そして、その後の私にとっての大きな一石となった参詣でした。
あまりに思ったことが大きかったので、繰り返し記事に書いてます。
「東寺」でブログ内検索かけてみて、ちょっとびっくりしたくらい。
その時のことを書いたたくさんの中から、主だった記事
★近畿ツアーの根底
★神仏を描く姿勢~東寺で思う
★温度と静寂と躍動
とにかく、静かなる衝撃…といった感覚だった、昨年9月の参詣でした。
他のお寺に参詣してみて、感じ方があまりにも違っていたので、もう一度東寺に行ってみようとは、ずっと、思っていた。
なので、ノープランでの散策先に選んだ…というのは、もう、自然な成り行き。
果たして。
今回の東寺体験はどうだったか…っていうと。
なんだろう…やはり、あの立体曼荼羅は…
他のお寺の像と、あまりにも違う。
体感的に。
もちろん歴史的美術史的宗教的、あらゆる方面から抜きんでて重要な像の数々であることは、間違いないんだけども…。
なんだろう…それだけじゃない気がする。
今回の東寺は、春の特別拝観期間だったので、前回は見ることができなかったところも拝観できた。
けれど、やっぱり、あの講堂のすごさといったら…他と違う。
わき上がるのは、「感情」ではない。
少なくとも私には、そう感じられた。
もっと、根源的なところから出てくるものだ。
神々から来る感覚が、根源的なリズム…太鼓や雷といった荒っぽいダイナミックなリズムなら。
東寺の立体曼荼羅…大日如来像から来る感覚は…やはり、「温度のない光」としか、言いようがない。
どこまでも静寂、静謐で、しかも同時に圧倒的。
神々のリズムが根源から揺さぶりをかけてくるような感覚なら。
大日如来像から来る感覚は、凪いだ水面のかすかな震えが一瞬にしてあらゆる方向へ伝播していくような…
仏様から来る…というのではない。
そうじゃない。
東寺の、立体曼荼羅の中心からしか、あんな感覚は受けない。
今は、他では体感できたことがない。
同じ東寺でも、金堂の薬師三尊像は、そんな感覚じゃないんだよねえ。
今回は五重塔の中も拝観できたけど…そこも、全然、違う。
五重塔はむしろ、壁画や柱画が気になって、そっちばかり見てた。
(建立が家光時代…江戸時代だって教えてもらったからかも。江戸時代の絵師のシゴトだからついつい…)
見えないものが見えたり聞こえたりする皆さん、何かここに書いてあることについてご意見や、教えてあげよう的なことを思われても、ご遠慮ください。
私は、他人からの解釈や謎解き、紐解きは、今は不要です。
いつか必要になるかも知れないけど、今は不要。
自分の感覚だけでいい。
それを消化して昇華しないと、往けない道がある。
最後に拝観した宝物館で対面した千手観音も、講堂の大日如来像から受けたのに似た感覚があった。
対面できるカタチに並べられていたイスに腰掛け、30分くらい座ってたと思う。
時間のことを言うなら…。
講堂に、いったいどれくらいの時間いたか…というと。
合計すると、1時間以上いたと思う。
最初に入って、座って、軽く30分以上。
で、金堂でも20分くらいは座ってて。
その後、五重塔に行って。
お茶をいただいて。
再び、講堂へ戻った。
そして、またまた、30分以上座ってた。
そんなことをやってたので、東寺に入ったのが10時前だったのに、出たのは1時過ぎ(笑)
この時点で、今日はもう大きなお寺への参詣は不可能だなと判断し、八坂さんへ向かうことにしたのでした。
そしたら、そちらでもちょっと、思いがけないものと出会いまして…予想外に時間がかかって、京都駅へ着いた時は3時半くらいだった…という。
八坂さん側で出会ったものについては、今は、書きません。
しばらくナイショにしておきます。
(ちなみに、完全に、見える現実のモノでございます)
ああ…いかにも怪しい行動をしてる東寺参詣ですけども。
見えない方のメッセージみたいなものは、全く、なかったですよ。
その、温度のない光…というのもメッセージだ、ということなら、いただいたことになるけど。
話しかけられるとか、そんなことは、私には、全然ありません。
あえてそんなこと言わなくても…って言われたのですけど。
やってることが怪しいから、言っておかないとさ。
んー、東寺レポには、全然、なってないですね。
写真だけでも貼って観光客っぽくしてみようかな(笑)
金堂
五重塔
空海の「今月のお言葉」=座右の銘の一つ
食堂で展示されていた藍染め作家さんの展示会。
これも素晴らしかった。見られてよかったです。
抹茶&バニラのミックスソフト♪
後で気づいたけど、これが今回の道中唯一の甘味でした(笑)