道をみつけるとか、輝く自分になるとか | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

いわゆる「スピリチュアル色」は、私の活動にはあまり必要じゃない。
それを特別で特殊なことのように扱う流れは、いらない。


私には、見えも聞こえもしないし、何かが下ろせるわけでもない。
絵の中以外には。


見えない方々と接すると頭痛がしたり、というのも。
低気圧頭痛と、仕組み的には変わりない。

体感的に感知する技術的感度は上がってると思うけど、だから何ができるわけでもなし。

エネルギーが通ったの、動いてるのと、感知できたからって、寒い日に息が白く見えるのと同じで、感知できること自体に意味はない。


スピリチュアルとは、生き方の問題。
自分だけで生きてるんじゃないってことを「感じて」とか「わかって」とか「知って」とか…そんな領域ではなく、

呼吸や拍動と共に流れるものの一部である

「そうである」…と、いうこと。



起きる事象の意味は何だ…とか、どことシンクロしたとかしないとか、どこから指示があったのなかったの…と。
そんなのは、全て二次的三次的な話しでしかない。

極論、どうでもよい。



以前は、教祖的に自分を崇拝させる感じのスピ業界の人とか、腹が立ったものだけど。
今は、それも、ない。

そういう傾向の人に間違った(と感じていた)観念を植え付けられる人が出る…そこに忸怩たる感覚もあったけど、今は、それも、ない。




私は、たまたま、見えない方達を自分が感じる姿形として私流の記録をする、ということが仕事になったからやっているけども、だからって別に偉いわけじゃないし。
スゴイわけでもないし。
上等な人間だとか、心が清いとかもないし、信心深くさえ、ない。
ましてや、選ばれた特別な者でもないし。


ただ、己の感覚に対してガンコだ…とは、言えるけども。




現在の私が置かれている状況が少々特殊に見えるとしたら。
それは、単に、目の前に差し出されたものを受け入れることを抵抗しなくなったために、次々と連鎖的にいろんなことが起こるようになった…というだけの話だ。


抵抗していた頃には、ぽつーん、ぽつーんと、数ヶ月、数週間も間隔が開いて、そーっと、サインが出ていた。
まるで、遠くにいる野生動物を慣らすために定期的に餌を置いてその場を離れる…といった様相で。


それが、今となっては、一日刻みに次の何かをどこかで見つける…時には日に何度もそういうことがある。

私自身も、イチイチそれを考えこんだり天秤にかけたり疑ったり、しなくなったから、マラソンランナーがほぼ自動的に給水を受け取るみたいに、ホイホイと掴んでしまう。

その中には、確かに、「はぁ?」と思うようなものが混ざっている時もあるのだけれど。
もう、今は、そこでさえイチイチ「この意味は?」なんてことは、考えない。
不要だなと思ったら捨てるまでのこと。




そんなことをしてて、怖くないのか…とか、危なくないのか…とか。
間違ったらどうするんだ…とか。

思う時もあるし、聞かれることもあるし、思われていることもあると思う。

でもいいじゃん。
やってるのは私だし。
痛い目に遭うことがあったら、それも私が遭うのだし。




動きたくないなら、動かなくていいと思うよ。

変わりたくないなら、変わらなくていい。


そうしたいのにどうしたらいいのかわかんないから悩むんだ~!

っていう人も多いと思うけど、その解決に、スピな要素はいらないですよ。
ただ、やってみるだけ。




それすら、どうしらいいかわからないんだよ~!

っていう人も多いかもだけど。

それは、自分にしかわかんないですよ。



ヒントをくれる人はいるけど、それも使うかどうかは本人次第だし。
ヒントをもらっても結局やらないまんま過ぎる…っていう人は、それを本人が望んでるのだから、他人がどうこうできやしない。




私は、自分の身辺の状況が急に動いている(目に見えるようになった)ことは、自覚している。

けれど、だから嬉しいという感覚は、無い。

マジかよ?とは、思う。
来るものを拒否しないと言ったのは自分だから、そのようにしている…というだけ。

やるからには、楽しもうとは思う。
だから、少しでも、好きな形になるように持ち込もうとは意識している。
その意識は、確かに作用している…とは、感じる。



もし、私が怖いと思わずに無茶なことをやったり決めたりできてる理由をコレと挙げるなら。

私には、己の行動指針となる北極星があって、その光を自分が絶対に見失わないと決めているという、確たる自覚が根付いているっていうことだ。

善悪のような相対的なものではなく、地球は太陽と共にしか存在し得ないというのと同等の「法則の上にある」自覚だ。



方位磁針が常に北を指す。

そこには、善悪も強弱も損得も全く、関与しない。
やる気があるかどうかも、好きかどうかさえも、関与しない。

ただ、「そう在る」というだけの話。




北を指さなくなった方位磁針は、壊れている。
壊れていることに早く気づけば誤差は少なく済むし、長く気づかなければ、修正不可能になるかも知れない。

選択を間違う、というのは、そういうことだ。





自分が進むべき何かを見つけたい、とか。
輝きたい、とか。

…それを願う、それを探す人達は、「それ」をどういう風にイメージしているのだろう。

私は、今のような北極星を見出す以前にも、強くそうしたことを願ったり探したり、していない。

何かを目指す、というのは、常にもっと具体的で、例えば絵にしても、自分の理想の基準というのがもとからあって、それに向けていく…とか。
そういうものであって、その「とりあえずのゴール」さえない…という状態ならば、そもそも「目指すものそのもの」も存在しない。


思い返せば、ずっと子どものころからそういう風に思ってきた。

だから。

自分に合うものが何かというのは自分にしか判断できない…とか。

目指すものを決めることができるのは自分だけだ…とか。

どうなりたいかを決めるのも自分だ…とか。


そんな感覚で生きてきたから、「自分探し」という概念そのものが私には不思議だ。


一定の技能や能力を、思い描く理想の水準に引き上げる…あるいは近づけるには、どうしたらいいのか…と。
そういうことを悩むことは、ある。

が、それはあくまでも技能や能力などの話であって、己自身がどうなるか…ということにおいては、どうもこうも…そんなのは、目指すものでもないし探すものでもないし…と。

そういうのが、私の感覚。


「あなたには、すでに自分の道があるから、そんな風に思うのだ」

って、思うかな…と、思うけど。

それは、違う。


少なくとも、私には、違う。






…ここまでが、月曜日…25日に書いた記事。
要素が幾つか交錯してるから、整理できないかなと思って保留してたけど、一旦、これでUP。


書くことが、さらに出れば、別に書きます。