見えたり聞こえたり | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

あなたは、見えたり聞こえたりする人なの?


…と、先日、今更でベタなことを、あえて、聞いてみた。

どう、答えてくれるか、知りたかった。


実際には、どっちだって、どうでもいい。
どっちでも、たいして違いはない。

そして、たいへん、答えにくい質問だ…というのも、わかってて、聞いた。


彼は、まず「見えないし聞こえないですよ」と答え。
それから、やりづらそう~に、言葉を選びながら、どうにかして説明を試みてくれる、その様子に、多分自分も人からそれを聞かれるとこんな感じの様子で答えに窮しているんだろな~と、思う。





しかし、それを聞きたいと全く思わない感じの人も、いる。

特に…「それなりに見えたり聞こえたりしているな」と感じる場合で、その使い方が危うい時。

(念のためことわっておくけど、私は、生き物ならば全て、必ず、なんらかのカタチで感知をしているはずだと思っている。ただ、現実に、その強度が強い人というのは、存在する)


聞きたくない…むしろその話題を避けたい、と思うのは…。

その質問をしたら、目がキラキラし始めると予測できる時。
または、悔しい、物欲しそうな目つきになるだろうと、予測できる時。


人のためにそれを役立てたいと思っている人が相手の時ほど、話を変えたくなる。


人のためになりたい…と願うならば、何もそんなものがなくたって、それを使えなくたって、役立つ方法はある。



それを現実に役立てようとするには…そういう願いを願っているうちは…。


役に立たない方向にしか働かない自分の感覚ってものが残念に感じたことが、私にも、ある。


しかし…だ。

そういう感覚を十分に活かして(そうせざるを得なくて…ということもある)人の役に立っている人…というのは。
本当に、役に立てている人は。

結局は、その人がそれまでにどれだけの思いで「人間力」も共に磨いてきたか…と。

その一点に、集約されるのだよね。


感知できるところだけではなく。
それを、どう受け止めるか。
さらに、どう発信するか。

どう、活かすか。


与えたい、と思ううちは…しない方がいい。

お世話したいとか、救いたい(私はこれが一番危険に思う)とか…。

使っている言葉は同じでも、どういう立ち位置でそれを言ってるのか…というのは、大事。


役に立ちたい、という思いは素晴らしい。
だからこそ、その素晴らしさに自家中毒を起こさないよう、自分という存在に対する「冷めた目」が必要になるのだ…と、思う。


他に選択肢があるのなら、そっちを選んだ方がいい…って、思います。