左脳とスピリチュアル | 手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

手が知っている異界の彩~絵師・緋呂 展示館~

神・仏・天使。そして、「あなた」の光を、緋呂が描きます。陰陽併せ持つ「人間」の中に、すべては在る。
描くべきもの、進むべき道。すべては、手が知っています。

私はもともとが圧倒的左脳人間。



理屈で物事を組み立てて、筋道で理解して、自分視点以外の見方もある程度は知識情報として把握して、それがまとまったら、やっと、納得できはじめる、という口です。

そこにかかる時間や労力が膨大なこともあれば、一瞬のこともある。

ある一定レベル以上のデータ量が(質であったり量であったり深度であったり、様々)揃うまでは、意見も感想も、解釈も、出て来ない。
そんなことが多いので、データが集まるまでというのは、そりゃあもう、相当、トロイです(笑)

何を聞かれても「は?」「さぁ…??」って感じになってしまう。

ヒトによっては、そういう、???な、収集中のテーマばかりを狙ったかのように聞いてくるってこともあって。
そういう方にとっては、私は本当に、アホにしか見えないだろうな~と。
いやまあ、アホなんで、それは別にいいんだけど。
聞かれたことに応えられないと、すごい申しわけない気分になるんで…ごめんね。



で。
スピリチュアルな世界(業界という意味ではありません)というのは、共通認識を作るのがとても難しい世界。

たとえば、天使の話を天使好きな人とするとして。

そもそも、お互いにとって「天使」という概念そのものがどこまで一致しているか、ってことが、甚だ疑問だったりする。

固有の名称をもつ天使の話をすると、更に、その乖離は激しくなる。


それを、さらに、真理とか、宇宙の根源とか、ワンネスとかいうテーマになると。

実際にはもう、互いの共通認識など、無いに等しいと思う。
そこにある共通認識とは、人として個別に作ってきたものというよりは、もっと大きな種の記憶や星やエリアとしての意識…のようなところで発生した認識で、限りなく「無意識の領域」に格納されているものに感じるのだね。



共通認識が難しいのは、何も、目に見えないことだけではなく。

たとえば、色。



と言っても、それを言葉で聞いた時にイメージする「赤」は、人それぞれ違う。

目の前に置かれた物質を同時に見たとして。

それを「朱色」と認識するか「赤」と認識するか「オレンジ」と認識するか、「紅色」「煉瓦」「橙」あれやこれや…とするか。

それぞれの、色に対するイメージによって、全く変わってくる。

特に日本人は、民族的に見ても、世界的に珍しいほどに色の識別力が発達しているという。

その要因は、多彩な表現を持つ言語。

色の名称というものをこれほど多く持つ民族は、他にそうないとか。

名称の数だけ、色を見分けることができる、ということなので。
100の色名があれば、100の色数がある…ということ。

もちろん、色のイメージだけでなく、器官としての目の機能がどのレベルか、というのも大きな要素で。
色弱な方なら、色名は知ってても判別は困難かも知れないし。

私のように、極度の近視だと、裸眼視した時はモノの見え方がボケボケで、色も特に強く見える部分だけ強調されてしまうので、まるっきり違う世界を見てしまう。

また、一般的には「見えないもの」とされているものが実際に目視できる人もいる。

人の感情が言葉と一緒に色で見える、という方。

音が、空中に色や形として視認できる、という方。

数字に固有の色が視認できる、という方。

人のまとうオーラが粒子として視認できる、という方。

温度が視認できる…という方。

まあ、いろんな方にお会いしてきた。

私にはどれも不可能なので、その方の実際の視野というものがどうなっているのか、それは想像するしかない。


ただ、そういうことが可能な人は、世に案外多くいて。
多くは、人の視覚との交換ができないため、自分の視覚が一般より広いということを気づかずにいる可能性があるので、ことさら主張もしない。

たまたま、隣に座った人が、私にない視覚を持っている方だったとしたら。
一緒に同じものや同じ風景を見たとしても、認識は全く別のものになる。
いかにそれが違うか、ということは、
「違うかも知れない」
という前提で、どう違うか確認しあってみないことには、判明しない。

そして、ほとんどの場合、そんなメンドクサイ会話は、しない。



同じ事が、聴覚嗅覚触覚味覚皮膚感覚…それぞれに、言える。
人の感覚はそれらの複合体だから。
足し算ではなくて、かけ算や乗算で、認識が生まれていく。
それを考えれば、「一つの物質」の見え方も、無限大に差異が生まれる可能性があるわけだ。


物事の解釈というのも、同じ。


上に書いてきたような理屈を踏まえて、私は多くの物事を理解、納得、判別…していく。
無意識でやってる部分が大きいので、後からこうやって書こうとすると初めてそれが自分でも認識できる…ってことは、珍しくない。

初めて自分の踏んできたプロセスを自覚できる、という意味でも、文章化するというのは面白い。

案外わかってないことが多い、ってのも、文章化してみて初めて気づく。


なんだけども。
文章化はおろか、フィットする単語さえ、探し当てるのが難しい…というのが、スピリチュアルな領域。
単語に当てはめると、どれも、なんか違う。
そうなると、自分で組み立て直すこともなかなか至難だし。
人と共通認識を作ろうとするのも、至難だし。
かといって、確実に「何かある」と感じていることは間違いないので、言語化が難しいけどあるものはある…という、非常にアヤシイ説得力のないことになってしまう。


それを感じていない人にとっては、全く理解不能な世界で。

想像たくましい方ならば、その方の認識の範囲内で想像してもらえるかも知れないけれども、自分が感じているそのものを伝えることは非常に難しい。

想像ってものに不慣れな人だと、さらに困難。




私は自分の感覚を自分に認識させることに、大変なエネルギーも時間も費やした。
自己内の認識であっても、そんな始末だ。


だから、抽象的な概念などをうまく言語で説明できる人を拝見すると、その方の脳内構造や皮膚感覚の構造を見てみたくなる。

そういう方は、共通して、用いる単語や用法がカンタンで、解釈の差を生みにくい文章が書ける。

すごいことだ。

論理化、体系化、それを更に言語化できること。

それは、能力と呼ぶのか、資質と呼ぶのか、才能と呼ぶのか。
それら全てを包括した「特徴」と呼ぶのか。

なんでもいいけど。

そういう人の書いた文章を、探し当てることさえできれば、手軽にいつでも読めるインターネットやブログというのは、本当に素晴らしい革命的なインフラだな~と。
思うのだね。



ネットには、ネットの神がいますね。

どういう神かは存じませんが、お世話になっております。