こんにちは、かわともです。
三国志を楽しもう第四弾ですが、この間の3弾でやめようと思ったら、コアな方から面白くなりそうだから続けてほしい。との声が寄せられたのでもう少し書こうかと思います。
友人からは200回連載を目指せと言われましたが、まぁ私の知識じゃ120回くらいが限界だろうなと、一人静かに苦笑いをしたところです。
関連付けていけば、近代前の中国くらいまではなんか書けそうな気もしますし、日本の歴史なら結構いけるかな?と考えておりますけども、仕事と政治活動を考えるとそうもいかんな。とも思うわけです。
さて実家へ帰り、すこしネタを探していると、以下の本が出てきました。
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最初に読んだ三国志の本と言えば、吉川三国志演義と横山光輝三国志なんですけども、80年後半~90~92年に熱を入れて三国志を読んでました。増版や刊行の日付をみるとやっぱり90~92年くらいのものが圧倒的に多かったですね。
中学の時はゲーテとかヘッセなどの西洋文学にかぶれていましたけども(笑)
ともあれ、三国志大百科とか古本屋にもおいてあるかどうかはわかりませんが、興奮しました(笑)
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こちらの諸葛孔明の話は孔明の出自から~五丈原で亡くなるまでの解説がわかりやすく載っています。古本屋なんかでも目にしますので手に入れやすいでしょう。

 

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こちらは陳寿の虚構を排した正史と南宋の斐(下は文じゃなくて衣)松之の挿話を合わせて読める本です。後漢宦官の登場~外戚~清流派官僚の登場~五丈原~司馬一族までをとても興味深く書いた一冊です。陳寿とはい松之の文を読み合わせることで、淡々とした陳寿の正史に、脈を打つような人間味が加えられた面白いできになってます。

ちょっと読んだらハマっていま読み返してますw

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なかなかマニアックな一冊(全四冊)だと思いますw

 

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中身はこんな感じで、中国劇画の漫画です。

日本の挿絵とは違う味があるのも興味深いところです。結構面白いです。

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この中国傑物伝の中に曹操が描かれています。また、中国任侠伝と言う小説がありますが、こちらの続中国任侠伝では後漢末の時代がテーマで何本か書かれています。

劉秀の前後くらいかな。樊超の話とか面白いです。

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でこちらは光栄三国志ゲームの新武将登録(笑)につかう時に役立ってます。
たとえば清流派の陳蕃とか李鷹とか実在しながら採用されなかった人物を登録してます。
たとえば水滸伝の一丈青扈三娘など昔は居なくて新武将登録してましたけども。
袁術がこよなく愛した女性とかw
まぁ余談ですけども(笑)
さて、三国志を語るにあたって知っておきたいこと、まぁ流れや登場人物はもちろんのことですが、そもそも日本でも愛される三国志、著者は陳寿それに注釈した裴松之の二名はどのような人物であったのか?知っておくことも大切なことです。
では、陳寿とはどのような人物なのか?
彼の父親は「泣いて馬ショクを切る」で有名な馬ショクの部将で軍律違反に連座して髪切りの刑にあった陳式が父親で、陳式は劉備に従って転戦をしている。
漢中の戦いでは徐晃に敗れたり夷陵の戦いにも付き従っている。また諸葛亮と共に郭ワイと戦っていたようだ。
演義では馬ショクと共に打ち首にされているが、それは演義の話。
さて陳寿は若くして学才があり、蜀に仕えて帝室図書館員として働いていた。※観閣令史
宦官に屈服しなかったのでたびたび左遷をされている。
蜀が滅びた後は晋に仕え「益州嗜旧伝」(嗜は口なし)や「諸葛亮集」「三国志」を作り高く評価を得ていた。同じく魏書をつくっていた夏候湛は三国志を読み自書を焼き捨てたという。
中書郎(皇帝秘書)に推挙されるものの、三国志を読んで不満をもった中書監ジュンキョクが
妨害し出世はしなかった。失意かどうかはしらないけども不遇のまま297年没した。
一方、裴松之(ハイショウシ)

ですけども、彼は372に生まれ451年に逝去している。時代は東晋から初宋となる。

三国時代終焉の280年から約100年もあとに生まれた人だ。

あるとき南宋の文帝が陳寿の三国志を読んだ。

文帝は陳寿の三国志があまりにも簡略でそれを残念に思った。

陳寿の三国志は簡略の良さがある。同時に簡略されていることが欠点でもある。

その簡略さを文帝は残念に思った。

わたしも残念に思った(笑)

しかしロマンがあるなと私は思った。

文帝もロマンがあるなと思った。に違いない(笑)

そこで中書郎(皇帝秘書)の裴松之に命じ、他の諸書から資料を集めさせた。これがいわゆる裴松之の注釈の三国志だ。

この裴松之注釈の三国志は異説や異論、挿話を列記したものでその為に精度に疑問がある。しかしながら、陳寿は蜀の人間であった為、蜀の視点あるいは呉の視点を三国志の中にいれることには憚りがあり書くことができなかった。※晋の正当性に触れる恐れ等があるため。

一方、裴松之は100年も後の人なので、憚ることなく蜀呉側の視点や挿話を入れることができた。これにより三国志がより精彩あるものへと変わっていく。たとえば蜀から見た事変、それを魏から見たときの事実の差異や受け止め方の違いなどそんな部分が評価された。と思う(笑)

裴松之注の三国志が陳寿の三国志と同等な理由もここにある。

そんな部分が講釈師の話の種になり、そこから羅漢中の三国志演義の誕生につながってゆくことになる。

そして太平記やその他日本文学においても影響力を与えていくことになるわけだ。

現代の日本でも古代中国史や水滸伝、三国志などの話は愛されている。

・・・・

・・・・・

・・・・・ちょい読みじゃなくなってますが。

・・・・・・しかもボタンを間違えて途中から書き直してて簡略してしまった(苦笑

それを文帝は残念に思い、わたしも残念におもった(笑)

では。