城をめぐります。有名無名関係なく、興味があるところならどこへでも!
今回のルート:東松山駅-百穴入口(バス停)-武蔵松山城本曲輪-兵糧倉-惣曲輪-二ノ曲輪-三ノ曲輪-曲輪4-岩室観音堂-吉見百穴
今回は武蔵松山城をめぐります。
スタートは東松山駅です。駅前から出ているバスで「百穴入口」バス停で降り、市野川方向に5分程歩きます。
南西の登城口です。ここから急斜面を上ります。勾配は急ですが、低い丘陵なので、すぐに山頂に到着ます。
武蔵松山城は1399年、扇谷上杉家家臣、上田友直によって築城されました。
1546年、河越夜戦にて北条氏康に敗れ、扇谷上杉当主朝定(ともさだ)と難波田憲重が討死し、松山城は氏康の手に落ちます。後に太田資正(のちの太田三楽斎)が奪還するものの、城代上田朝直が寝返ったことにより再び北条氏の支配となりました。
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により城は落城、1601年、徳川の時代が来るとともに城は廃城となりました。
本曲輪です。遺構の類はありません。
縄張り図です。武蔵松山城は主要な曲輪が一直線に並ぶ、連郭式の縄張りです。兵糧倉、惣曲輪と回り、いったん戻って二ノ曲輪、三ノ曲輪、曲輪4を巡ります。
本曲輪下方の馬踏。左右は深い堀が切られています。
この城跡はとにかく空堀が多いことで知られています。城郭の半分以上が空堀で、複雑に入り組んだ縄張りが侵入者を迷わせる仕組みとなっています。
兵糧倉。
竪堀から見下した岩室観音堂。かなりな急斜面。通行止めとなっています。
北側に設けられた惣曲輪。広い平場です。
虎口。前方左に曲がっています。
土橋。左側が曲輪4、右側が三ノ曲輪です。
二ノ曲輪。
三ノ曲輪。
曲輪4。
「松山城風流合戦」について。
1537年、松山城争奪戦の中、難波田憲重(扇谷上杉軍)と山中主膳(北条軍)との間で起こった和歌問答です。態勢を立て直すため、退却する難波田に対して山中主膳が歌を詠んで挑発します。
あしからじ よかれとてこそ 戦はめ なにか難波田の 浦崩れ行く
(主君のために良かれと思って戦ったのではないか、なぜ難波田ほどの人物が逃げていくのだ)
対して難波田は古今集の歌を詠んで返します。
君おきて あだし心を 我もたば 末の松山 波もこえなん
(主君をさしおいて挑発に乗るようなことがあれば、いずれ松山は荒波に吞まれてしまうでしょう)
つまり挑発には乗らないということです。
これはもともと古今和歌集にあった歌ですが、それを当意即妙に返したところが、難波田の教養深さの表れであるというわけです。合戦中に、実際にこういうやり取りがあったかどうかは分かりませんが、室町時代の風流なエピソードとして残っています。
北東の登城口に抜けた後は、岩室観音堂に向かいます。岩室観音堂は武蔵松山城城主が信仰していた仏教施設です。秀吉の関東進出によりすべて焼失しましたが、17世紀に再建されました。
お堂を抜けた先が、先ほどの竪堀に続いています。ここは武蔵松山城の搦手口と伝わります。
では最後に吉見百穴を見学します。吉見百穴は古墳時代後期に造られた横穴墓です。
ここはヒカリゴケの自生地でもあります。
展望台からは富士山を見ることができます。
ご覧いただきありがとうございました。
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