城をめぐります。有名無名関係なく、興味があるところならどこへでも!
今回のルート:新府駅-新府藤武神社-新府城本丸跡-石祠・武田勝頼公霊社-二の丸-丸馬出-三日月堀-東出構-乾門桝形虎口-井戸跡-韮崎市民俗資料館-雲岸寺
今回は新府城をめぐります。
スタートは新府駅です。新府駅は無人駅ですが、スイカには対応しています。
この日は天候が悪く、空は曇っています。
西へ15分ほど歩くと城跡入口に到着します。
この石段の先が本丸跡に続いています。
新府城は1581年、武田勝頼によって築城されました。長篠の合戦で敗れた後、北条氏政、徳川家康、織田信長らの軍によって窮地に立たされていた武田勝頼は、躑躅ヶ崎館に代わる新たな城を設け防衛体制を強化する必要に迫られていました。1581年から、韮崎の地に新たな城を築城し、未完成ながら、その翌年には勝頼は新府城に移り住んでいます。
しかし木曽氏の離反、織田軍の侵攻などを受け、勝頼が移り住んでわずか68日、間もなく城が完成するというところで、再起をかけた勝頼は自ら新府城に火をかけ岩殿城に向かいます。その途中、小山田信茂の謀反に遭い、天目山に追い詰められた勝頼は自害、武田家は滅亡しています。
その後は天正壬午の乱がおこり、徳川家康が陣城として利用しています。
新府藤武神社の社殿。
本丸跡碑。
石祠・武田勝頼公霊社。勝頼公とともに家臣も祀られています。
本丸からの眺望です。天候が悪いのが残念ですが、冬場は木々の葉が落ちるため、見晴らしは良いですね。
本丸を後にして、二の丸に向かいます。二の丸は、人が歩ける道はありますが、曲輪全体は藪化していて、中には進みにくい状態です。
丸馬出と三日月堀跡です。盛り上がっているところが丸馬出、周囲に広がっているところが三日月堀跡です。
縄張りの北に位置する東出構です。堀に突き出す形で設えてあり、北からの侵入者を迎撃します。
北側の堀と、帯曲輪の土塁です。
城の北西には乾門桝形虎口が設けられています。手前の礎石があるところに二の門、枡形を経て、奥には一の門がありました。
井戸跡です。直径25mほどの井戸が確認されています。この奥は、先ほど行った二の丸につながっています。
韮崎市民俗資料館。ここで続100名城のスタンプと御城印をいただくことができます。資料館は新府駅と韮崎駅の中間あたりにあり、どちらからも行きにくい仕様になっています。徒歩だと結構大変です。と言うか、大変でした。
新府城は七里岩の断崖を利用して建てられた平山城です。七里岩とは、八ヶ岳の山体崩壊によってできた平坦地が、さらに塩川、釜無川の浸食によって削られた台地のことです。
こちらは韮崎駅近くの雲岸寺ですが、右側の崖が物凄い迫力です。ここは七里岩の南端にあたる場所で、ここからでもその高さがうかがえます。
今回は途中から雨に降られましたが、武田氏の悲しい歴史を振り返ると、それはそれでふさわしいような気もしました。
ご覧いただきありがとうございました。
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