城をめぐります。有名無名関係なく、興味があるところならどこへでも!
今回のルート:城山入口(バス停)-箕輪城搦手口-郭馬出-大堀切-二の丸-本丸-御前曲輪-三の丸石垣-鍛冶曲輪-白川口埋門-虎韜門-高崎市箕郷支所
今回は箕輪城をめぐります。
スタートは城山入口バス停です。高崎駅からバスを利用し、40分ほどで到着します。ここから北西に向けて箕輪城搦手口を目指します。所要時間は徒歩15分です。
搦手口に到着しました。搦手口とは裏口のことですが、長野氏、北条氏の時代まではこちらが表口だったようです。
箕輪城は1512年、長野業尚(ながの なりひさ)によって築城されました。その後は憲業(のりなり)、業正(なりまさ)、業盛(なりもり)の4代にわたって長野氏の本拠となり、特に業正は武田信玄の攻撃を度々退け、「上州の黄斑(おうはん=虎)」と称えられています。1566年、業盛の時代に城は落城、武田氏の支配となります。1582年、武田氏滅亡後は、滝川一益、北条氏邦、井伊直政と城主が変わります。1598年、井伊直政は高崎城に移封となり、箕輪城は廃城となりました。
箕輪城は河岸段丘の段丘崖に築かれた梯郭式の縄張りです。崖上に立つと、高い位置にあることが分かります。
郭馬出西虎口門です。平成28年に復元された櫓門で、箕輪城のシンボル的存在となっています。
大堀切の奥には土塁と石垣が復元されています。
大堀切は歩くことができます。このまま下ると虎韜門に至ります。
西虎口門に戻り、郭馬出を見てみましょう。郭馬出は城の南側に出撃するための拠点でした。
さきほどの土橋を渡り、二の丸に向かいます。
本丸と二の丸を隔てる本丸南堀です。
本丸跡。周囲に土塁が盛られています。土塁の上は歩くこともできます。
箕輪城跡碑。
本丸北側の堀切。ここも歩くことができます。
御前曲輪。本丸の奥にあり、詰めの城といった位置づけでした。落城の際、城主は持仏堂に入って自刃し、一族郎党も後を追ったと伝わります。
御前曲輪の井戸。落城迫る中、武田方に辱めを受けぬよう、長野家累代の墓をこの井戸に隠したという言い伝えが残っています。
三の丸石垣。河原石を野面に積み上げています。
三の丸下層の石垣。草に覆われてしまっていますね。
鍛冶曲輪の石垣。
白川口埋門跡。虎韜門から白川河原に出る秘密の門。西にある鷹留城との連絡に使われていたと考えられています。
虎韜門。ここにも石垣が残ります。虎韜門は井伊直政が名付けたとされ、大堀切の西側を守る要所でした。右側の坂(大堀切)を上ると西虎口門に至ります。
100名城のスタンプは20分ほど歩いた高崎市箕郷支所、あるいは公民館で押すことができます。
なお御城印も販売されていますが、日曜日に開かれている「ふれあい市」でのみ、販売されているそうです。どうしても欲しい方は日曜日に行きましょう。
ご覧いただきありがとうございました。
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