特高警察は、その歴史を通じて、1910年代から敗戦まで、日本に生じたあらゆる組織を監視してきたと言えるだろう。

特高警察の根源を探ると、1880年代の自由民権運動の高揚時に整備され、政府側の意に添うように政治・選挙運動などを監視していた「高等警察」に由来する。

1910年の大逆事件をきっかけに、社会主義・無政府主義者など「国体」に害を及ぼすとみられた存在に対するより高度な監視体制が求められ、1911年に高等警察から「特別高等警察」が分離独立した。これが、「特高警察」の始まりである。その後、有名な治安維持法の制定により、特高警察はさらに絶大な権限をふるうようになった。

治安維持法以外にも、天皇に対する忠誠を強制した「不敬罪」や、太平洋戦争後に制定された「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」も、意に沿わない人々に対し盛んに適用された。また、特高警察と直接の関係はないが、軍の憲兵隊にも特高課が置かれ、下層の兵士たちの思想動向や革新運動に目を光らせていた。

 

時代が進むにつれ、ありとあらゆる組織・言動・出版を監視及び検閲し、時の内閣の意に沿いつつ必要とあらば徹底的措置をとって圧力をかけていた。

 

☞1930年代には内閣というより憲兵隊と同様軍の指揮下で、一般人を、捏造した容疑で逮捕して拷問でニセの容疑をでっち上げて処刑し、黙秘すればその場で拷問死されるということが今の北朝鮮のように日常茶飯行われていたのが78年前までのこの国だ。

 

特高警察自身の強い調査力と国内に張り巡らした監視ネットワークといった国策の成果でもあるが、同時に市井の密告・通報者たちの存在も、これを支えていたのである。

 

また、「反戦策動」「不敬不穏事件調」は一般庶民の言動や落書が多数掲載されている。明らかに、地域の密告がなければ判明しなかったとみられる事例も多数ある。

 

☞現に、徴兵拒否のまま、全国各地を逃亡して生き残った者も少なからずいる。

彼らとて完ぺきではなく、網の目も粗かったということだが、現代では不完全なAIによる選別で無実の者を次々と大罪人に仕立て上げているのが現状である。

 

魔の手はいつどこからあなたに迫ってくるかわからない、それが公安警察である。

 

 

 

特高警察は日中戦争勃発から敗戦まで庶民の言動を欠かさず収集し続けており、戦争により苦しむ国民の生の声を、一番最初に感知する組織でもあったのだ。

 

この描写は、実際に小林多喜二ら左翼関係の拘束者に対して「自白」「転向」させるために行われた警察署内の拷問をまとめたものだろう。

暴行、暴言、天井から吊るす、水攻め、石攻め、うっ血させる、窒息させる、鉛筆を指に挟む……時代劇さながらの拷問が、近代国家を名乗る日本の警察内で行われていた。

1928年3月15日、千人以上の共産党関係者が治安維持法により一斉検挙され、多くの人々が苛烈な拷問を受けた。

プロレタリア作家の小林多喜二は、日付をそのまま題にした小説『一九二八年三月十五日』においてその数々の拷問について描写しているが、後に彼自身も1933年2月20日に特高警察に拘束され、築地署内において拷問を受け殺害された。

その死体は拷問による傷で膨れ上がっていたが、警察は病院に搬送したことと「心臓麻痺」による死として拷問を否定した。作中の櫂も、もう少し遅ければ同じように「処理」されていたかもしれない。

 

☞大逆事件では妊娠した女までが拷問で殺されているが、大河原化工機容疑捏造事件でも、がん手術が必要な高齢の技術者が投獄されたまま治療されず長く放置された末、手遅れで死亡するという拷問殺人が現代もなお、公安・検察・裁判所の共犯で行われたのである。

 

つまり公安=特高警察の残虐性・非人間性の拷問マシーンとしての狂態は100年以上たってもまったく改善されなかったということだ。

 

こうして平然と拷問が行われていながら、一方で国家はその事実を一切否定し続けた。

労働農民党の山本宣治議員は、1929年2月8日に衆議院予算委員会第二分科において、函館警察署内で行われた拷問などを取り上げ、警察を統括する内務省を追求した。

しかし、対応した秋田政府委員による返答は要約すると「断じて無い」「明治、大正、昭和を通じて、この聖代(※天皇によるありがたい統治)において想像できない」という否定とはぐらかしであった。

このように、拷問は国家・内務省にとってもあってはならないものだと言いながら、一方で公然の秘密として行われていたのである。

 

これほど苛烈な行為を行い、言論や政治的自由を攻撃してきた特高警察だが、敗戦後は一体どうなったのだろうか?

1945年8月15日の敗戦を迎え、17日には皇族の東久邇宮稔彦を首相として新内閣が組閣された。

だが、この敗戦を処理するための政府は、9月2日の降伏文書調印を経てもなお特高警察や治安維持法を中心とした監視体制を存続させようとしており、翌年度の予算についてすら要求が行われていた。

なおも刑務所には多くの政治犯が拘束されており、その中には、45年3月に拘束された哲学者の三木清もいた。獄中の劣悪な環境で疥癬(かいせん)を患った三木清は、新しい日本を見ることができないまま9月26日に獄死した。

このことは日本の民主化を進めるGHQの気を大きく引き、即座に特高警察の廃止や政治犯の釈放などを命令する所謂「人権指令」を出した。しかし、旧体制の存続を目指す東久邇宮は、そのような命令に対応することができず、総辞職することを選んだのである。

特高警察の廃止は、後続の幣原内閣により達成された。これまで特高警察の存在を知りながら全く批判しなかった報道各社も、手のひらを返したように特高警察の実態について報道し始めた。

 

だが、早くも45年12月には、政府は内務省内に公安課を設置し、各県の警察にも警備課(後に公安課)が設置され、特高警察の命脈を受け継いだ組織が復活することとなった。(その多くが特高警察や憲兵隊あがりであった。)

そして、特高警察を構成していた人員も、末端の警察官などは罷免などを受けたものの、指導層だったものは公職追放処分が解けてすぐ、逆コースと戦後政界の中で公職や国政に復帰していった。

例えば鹿児島県特高課長であった奥野誠亮は、戦後田中角栄内閣で文部大臣を、鈴木善幸内閣で法務大臣を務めるなどしている。東久邇宮内閣で内務大臣を務め、人権指令に反発した山崎巌も、第一次池田内閣で自治大臣、国家公安委員会委員長を務めた。

 

そして1952年に設立された公安調査庁にも、多くの特高・憲兵系の人材が流れ込んだ。

 

そして、それが本当に「国民のため」になっているのか透明に確認する手段は、戦前の特高警察と同様、ほとんど存在しないといって良いだろう。

戦時中の拷問が残酷すぎる…特高警察から見えてくる「日本の歴史」(髙井 ホアン) | 現代ビジネス | 講談社(5/5) (gendai.media)