NO1405
大多喜町からいすみ市大原に抜けるには
国道465号線が便利です!
国吉、新田野を通り 佐室までくれば大原は
もうすぐです!
その佐室の旧道に発坂峠と言う看板と鳥居がありました!
(Googleの写真より!)
佐室トンネルの手前に見えるガードレールの中に入ってみると
閉鎖された旧佐室トンネルがあります!
その左手に鳥居と小さな神社らしき物が祀られてありました!
見てみると旧道があった頃は立ち止まり手を合せて行く人も居たのでしょうが
閉鎖されてからは立ち寄る人もなくチョット淋しい感じのする所でした!

案内板を読んでみると
かつてこの鳥居の先は発坂峠といい、
旗立山があり戦国時代の古戦場な跡だと言うのです!
また、江戸の時代から明治30年頃までは主要な往還であり
庚申塔や馬頭観音等の石仏や茶店の跡も残っているそうです!
また旗立山からの眺望は東に太平洋西に富士山と絶景であると書いてありました!
普段ならそれは行ってみなくてはと言うのが私なのですが、
何故だか今回は足が向きませんでした!
平将門伝説の桔梗塚の時と同じで
何かが『そこへは行くな!』…と言っているようで…!
足が止まってしまいました!
この発坂峠にはこんな話が残されていました!

『発坂峠の戦い!』
昔 々 今から約400年程前の事です!
この辺り一帯は万喜の土岐氏と安房の里見氏が大きな勢力を誇っていました!
その為土岐氏と里見氏はしばしば小さな争いを繰り返していました!
天正17年(1589年)里見氏の指揮下に有った長南城(現、長南町)が土岐氏攻められ大敗しました!
この知らせは直ぐに安房城主里見義頼に伝わりました!
知らせを聞いた義頼は激怒しました!
『ええ〜土岐は親子二代に渡って我里見家にそむいて……
万喜城に一気に攻め入って降参させねばならぬ…!』
万喜城攻略の命を受けた安西遠江守、山川豊前守は総勢250騎率いて
安房の国から上総の国に向かいました!
里見軍が攻めて来た事を聞いた万喜城主土岐頼春は
『敵が攻めて来ると言うのに城で待って居るのは不本意なり、
途中で里見軍を迎え一戦交えようぞ!』
『里見の兵など朝飯前にやっつけてやるぞ!』
…と600騎を率いて保坂峠に向かい陣を引きました
一方、土岐軍が城を出た事を聞いた里見勢は
『城を出るとは願ってもない事だ、
後部を断ち入って前後より挟み撃ちにしようぞ!』…と
新たに300騎を密かに久保村(現、御宿町久保)に回しました!
これを近くの百姓達が見つけて久保坂峠に陣を構える土岐軍に知らせました!
これを聞いた土岐頼春は
『皆の者よく聞け、これより陣を引き払い発坂峠に向かう!
そこで里見勢を迎え撃つ!』…と
久保坂峠の陣を引き払いました!
里見軍はそうとは知らず夜明けと共に久保坂峠に向かいました!
土岐軍の姿は見えません!

『さて、土岐軍は里見軍が怖くて逃げ出しおったか……
追い打ちして一気に攻め潰してしまえ〜!』…と万喜城を目指して進撃しました!
里見軍が丁度 発坂峠にさしかかった時です!
峠の頂きに『桔梗の紋』を書いた土岐方な旗が林立しているではありませんか!?
里見軍は動揺して立ち止まりました!
しかし……ややしばらくあって
『者共ひるまず一気に駆け登れ〜!』…と
安西遠江守の号令がかかりました!
すると『ウォーウォー』と言うかけ声と共に太刀を抜いて峠道を駆け登ります!
しかし土岐軍の峠から降ってくる弓矢に
辺りは血の海!(。>﹏<。)
草の匂いの漂っていた峠道はまたたく間に
血の匂いに変わっていました!(;一_一)
やがて里見勢は力尽きて撤退して行きました!
この時戦死者が土岐軍16人里見軍180人と言われています!
里見軍の折れた弓や太刀を埋めた所が『弓折塚』と呼ばれています!
また、矢玉、矢中などの地名も近くに残っています!
峠には土岐の紋『桔梗』の旗を立てたいわれる『旗立山』と言う地名もいまに伝えられています 終
戦国時代とは言え、人斬り包丁を振り回して敵に切り込む訳ですから
今の私等にはとても創造もつきません!
ただ江戸時代の幕末までは日本国内で争い、
その後は世界へ向けて戦争をすると言う戦いのくり返し!(・・;)
そして、誰かに言わせれば、地球の自然を壊すのも人間なんですね!(;一_一)
御案内

発坂峠
大多喜町から大原へ向かう国道465号線
佐室トンネル手前にあります!
お付き合い誠にありがとうございました!
m(_ _)m