久々の更新です。

失礼しました<(_ _)>


いまから149年前、香春は幕末の嵐が吹き荒れていました。

慶応2年8月1日、長州との戦いに敗れた小倉藩は自慢の天守閣に自ら火を放ち、藩政府を香春に引き上げました。

戦時疎開者が満ち溢れ、藩主一行も道で立ち往生するほどの混雑だったと記録にあります。

小倉軍は防衛に有利な金辺峠に陣を構え、小倉藩の勇将・島村志津摩は有名な高杉晋作率いる奇兵隊と互角以上にわたり合い、香春を中心とした田川の地を守り抜きました。

高杉晋作に黒星をつけた名将・島村のことはあまり知られてなく、香春に住む我々にとって、もっと知るべきことの多い人物の一人であると思います。


慶応3年3月に正式に香春藩として発足するに至りますが、その間、血なまぐさい事件も数度起きます。

そのうちの最大の事件が〝鍋屋騒動〟と言われる乱闘がありました。

慶応4年1月、薩摩藩ゆかりと称する一行が旅籠・鍋屋に宿泊します。

それを不審に思った香春藩士たちは早速調査するものの、真偽のほどはわからずに討伐に向かい、逃げ惑う一行を次々と切り殺し、12名の首を西念寺の土塀に晒しました。

それを憐れんだ日蓮宗蓮華寺の住職が藩に申し出でて、自分の寺の墓地に埋葬しました。

本当に薩摩藩の武士だったのか、何のために香春に立ち寄ったのか、どこに行こうとしたのか?何の目的があったのか・・・すべてが謎に包まれたまま、150年近くがたっています。


ここに一つの驚くべき報告があります。

無法松の一生の作者として有名な、故・岩下俊作が調査に訪れ、九州文学という文芸誌に〝幕末における日本最大の暗殺事件〟として位置づけています。

幕末の事件として京都を舞台とした新撰組関係がやたら有名ですが、池田屋事件にしても、即死者7名(内3名自殺)、捕縛者23名(内9名〈近藤の手紙では4名?〉が重傷のため死亡)、新選組側即死者1名、重傷者4名(内2名死亡)です。諸説があるので多少の人数差はありますが、こんな感じです。


ところがわが鍋屋騒動では12名が切り殺され、首を取られているのです。

幕末、香春の地で池田屋騒動を上回るような乱闘があったことを知る人は少ないと思います。


夏真っ盛りの頃・・・新暦では9月初めになりますが、香春では、熱風の嵐が吹き荒れていたのですね。

今年も暑い8月がやってきます。




香春藩庁跡。いわば今の県庁のような場所ですな。




付近には古い街並みが続きます。




首がされされた西念寺の塀。電柱が建つ付近の壁と言われています。




鍋屋騒動跡地を示す案内




供養塔と首塚の石




香春藩士たちが刀を差し、往来した街並




鍋屋騒動を伝える説明版。この近くに薩摩屋という屋号を持つ商家があった。

なんか関係があるのだろうか?