◎『NHK俳句』2月号の「わが師を語る」は寺井谷子さんによる横山白虹さん

ご承知のように白虹さんは寺井さんのお父上でいらっしゃいます。


テキストでは、横山白虹氏については、以下のように紹介されていました。


明治32(1899)〜昭和58(1983)年。東京生まれ。府立一中、一高を経て九州帝国大学医学部卒業。九州帝国大学医学部講師、日炭高松病院長などを歴任の後、小倉に横山外科病院を設立。俳句は大正11(1922)年頃から始め、大学では九大俳句会を設立。昭和2(1927)年、吉岡禅寺洞の「天の川」に投句、のち編集長を務める。8年、篠原鳳作らの「傘火」に参加。12年、「自鳴鐘(とけい)」を創刊・主宰。新興俳句運動に参画する。同誌は戦時の用紙統制令によって一時休刊するが、23年、「自鳴鐘(じめいしょう)」として復刊。27年、山口誓子主宰「天狼」同人となる。48年、現代俳句協会会長に就任。58年の死去まで同協会の発展に寄与した。また、小倉市議会議長、全国市議会議長会副会長、北九州市文化連盟会長などの要職も歴任した。句集に『海堡』『空港』『旅程』『横山白虹全句集』がある。


寺井谷子さんについては、次のように紹介されていました。

昭和19(1944)年、福岡県生まれ。横山白虹・房子の四女。明治大学文学部演劇学専攻卒。10歳より作句。41年「自鳴鐘」編集に携わる。59年、同誌編集人、副主宰。平成4(1992)年、第39回現代俳句協会賞、北九州市民文化賞。平成14〜17年「NHK俳壇」選者を務む。19年「自鳴鐘」主宰。28年、第7回桂信子賞、29年、第16回山本健吉賞。「産経新聞」「南日本新聞」等俳壇選者。現代俳句協会副会長。


▪️臥しかへるその繭玉のさゆらがね 『海堡』昭和13年刊

「不器男君病床」の前書が付く。昭和4年、芝不器男は九大附属病院に入院。白虹は主治医として養生の寓居に往診。句座を持ち、慰めた。


※「さゆらがね」は「さ(すこし)揺れる金(鋼)」で繭玉を挿す針金のことではないかと思います。(すえよし。以下※印同じ)


▪️よろけやみあの世の螢手にともす 『海堡』昭和13年刊


〈炭坑にて肺結核に侵されたるものをよろけを病むといふ〉の註がある。当時、炭鉱地の病院長。炭鉱景気の底に在る「人」と「命」への思い。


※以前ブログでこの句を取り上げた時(https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12478858000.html)、鳥居真理子氏( 「門」「船団」)は以下のような評をされていました。


《この作品の優れているところは、時代がもたらした社会問題を示唆しながらも詩的な世界を構築していることである。「よろけを病む」を「よろけやむ」とひらがなで表した作者。「蛍」は闇のなかで「蛍火」となる。「闇」と「病み」のふたつが重なり合うとき、この世の蛍はあの世の蛍に姿を変え、いっそう美しく病者の掌に明かりを灯す。「よろけやむ」を詠う一連の作品はひらがな表記とも相俟って手触りもまた柔らかい。「よろけやみ水からくりに現あらず」「よろけやみよごれし葛をもてあそぶ」》


▪️夕暮の莨はあましかけす鳴く 『海堡』昭和13年刊


白虹はもっぱら外国たばこを好んだ。「煙草」ではなく「莨」。書棚に置かれた「ゲルベゾルテ」や葉巻の空き函は、宝石に思えた。


▪️ラガー等のそのかちうたのみじかけれ 『海堡』昭和13年刊


「昭和九年二月十八日大阪花園に於て全日本対全豪州ラグビー試合を見る」の一句。ワールドカップの2019年より85年前。今も古びぬラグビー精神讃歌。


※この時の同時作に以下の句があり。

▪️ラガー等に二つの國旗ひるがへり

▪️枯芝にいのるがごとく球据ゆる

▪️ラガー等の頬もぬれたり氷雨來て

▪️審笛(ふえ)鳴りて手をとり合へりぬれし手を


▪️沼の精霊(ぬのすだま)口より吐くは曼珠沙華 『海堡』昭和13年刊


連作「役の行者」7編35句。「俳句研究」昭和11年12月号掲載。かつて築地小劇場で観た坪内逍遥作『役の行者』を俳句でとの挑戦。


▪️雪霏霏(ひひ)と舷梯(げんてい)のぼる眸(め)ぬれたり 『海堡』昭和13年刊


昭和12年俳誌「自鳴鐘」創刊。「出航」と題された5句の中の一句。以後、橋本多佳子は「〈雪霏々〉は白虹さん専売よ」と言ったという。


※「霏々」=雪や雨が絶え間なく降るさま。


▪️桂蓮は Cocteau (コクトー)の指無数に折れ 『空港』昭和49年刊


一中、一高時代。北原白秋と川路柳虹に師事した白虹は、詩や絵画、音楽、演劇を愛した。コクトーの繊細な手と長い指。外科医白虹の手は温かく堅牢。


▪️霧青し双手を人に差しのばす

『空港』昭和49年刊


昭和23年「自鳴鐘」復刊。俳句を愛する青年たちが集う。「個性」尊重を言い、「共に歩む」と題した選評欄。「霧青し」の瑞々しさ。


▪️ニコよ!青い木賊(とくさ)をまだ採るのか 『空港』昭和49年刊


〈ニコは娘谷子の愛称なり〉の註。探梅句会の間、8歳の少女は寺の境内の木賊を折った。美しい水が出た。


※寺井さんは上の文章では簡単な書き方をされていますが、あの木賊(ある意味では滋味な草)にあまりにも夢中になっていたニコちゃんのことが少し心配になったのかもしれません。またそういうニコちゃんだからこそ、将来大物の俳人になるのですね、笑。木賊は私(すえよし)の大好きな草です。


▪️きらめきて月の海へとながるゝ缶 『空港』昭和49年刊


暗く静かな河口。その中を、月の光を返しながら流れる缶の煌き。「月の海へと」の広やかな解放感。白虹の持つ構造力。


▪️蛾が卵性みをり推理小説閉づ 『空港』昭和49年刊


白虹は推理小説ファンであった。早川書房のポケット・ミステリはほとんど買い込み、文庫の扉には、自筆で短い書評が書き込んであった。


▪️妻待てば聖樹の星に触れて来る 『空港』昭和49年刊


妻俳句も多い。美しく凛とした16歳年下の妻を愛した。聖樹の星に触れる妻は、まだ夫の眼に気付いていない。


▪️蜂追ひし上衣を肩にして歩く 『空港』昭和49年刊


昭和34年小倉市議会議員に再選。市議会議長、全国市議会議長会副会長、北九州五市合併特別委員長等歴任。忽忙の中の充実か。


▪️春夜の街見んと玻璃拭く蝶の形に 『空港』昭和49年刊


人が好き、集うのが好き、人と人を結ぶのが好きであった。生来のリーダー感覚。したがって夜の街には親しい。その帰路の刻に得た詩情。


▪️原爆の地に直立のアマリリス 『空港』昭和49年刊


元五島美術館館長・唐沢勲氏は「この一句で救われた」と、 自身の広島救援での二次被曝の体験を語って下さった


▪️帆立貝売るひようびようと地中海 『空港』昭和49年刊


昭和42年秋。一か月近くのヨーロッパ旅行。多くの国で、多くの作品を得た。この句はナポリでの作。


※「ひょうびょう」 は「縹渺」でしょうか。「縹緲」は辞書によると、①かすかではっきりしないさま。②果てしなく広いさま。 などの意味のようです。


▪️原子炉が軛(くびき)となりし青岬 『旅程』昭和55年刊


昭和49年佐賀県玄海原子力発電所にて。一号機が完成していた。今この句を前にすると、「軛」の一語が重大な指摘として迫る。


▪️ああ冬衛!青潮へ菊墜ちてゆく 『横山白虹全句集』昭和55年刊


姉妹都市の中国旅大(後・大連)市を中心に80歳の年から三度訪中。一回目の折、畏友の詩人・安西冬衛の大連への想いを重ねて老虎灘より献花。


▪️歳晩の夢のかけらの桃色鍵 『横山白虹全句集』昭和55年刊


昭和58年11月18日死去。枕頭、翌年1月号用の「賀詞」13句が清書されていた。この「桃色鍵」は84年の充実の生涯への答えか。


▪️賀詞きいて青衣のひとり泣けばよし 『横山白虹全句集』昭和55年刊


「賀詞」はこの一句で終わる。「青衣のひとり」に重なるのは、病室に泊まり込んで看取った妻・房子の姿。惜別と愛を込めて。


※以上、20句を引き、句の解説というよりは白虹さんの人柄を偲ばせる内容となっておりました。 


※白虹さんと山口誓子さんの交誼と友情も有名な話です。寺井さんも少し書いておられ、《(『海堡』の)序文は山口誓子。この一文は、「白虹の詩精神」の核を鮮やかに伝えている。》と書いておられました。その山口誓子さん序文(一部)を記録しておきたいと思います。


《この句集の序を書くことは、大阪駅の高架歩廊で約束した。

白虹君は、僕の然諾を聞き、寝台

の無い夜行列車で小倉へ帰つていつた。

そのときのことを詳しく書く必要

はない。僕は唯白虹君の烈しい友情のことを書けば足りるのである。(略)

昭和の初頭、僕は自己の流儀に従

つて俳句を作つてゐた。そして自分の俳句が見えざる人々に依て支持されてゐることを知つた。しかしながら、自分の俳句が従来の俳句と如何にして弁別するべきかという問題に就いては明確なる意識を持たなかつたのである。口惜しいことである。

それを「詩性」のありなしだと說

明したのは自虹君であつた。(略)

自虹君は新しい俳句の詩性を最初

に発見した。それを発見したのは僕ではない。(略)

僕はこの作家の

雪霏々と舷梯のぼる眸ぬれたり

を近年に於ける傑作の一つに数へてゐる。この作品には白虹君の志向してゐる詩性が、瑞々しく、しかも的確に描かれてゐるからである。白虹作品は溶けてしまはないで、結晶をはつきり保つてゐる雪片である。》


※寺井さんの御文の最後に、北九州市八幡の山腹にある、誓子さんと白虹さんの巨大な「友情句碑」に刻んである俳句が紹介されていました。

▪️七月の青嶺まちかく溶鉱炉 誓子

▪️雪霏々と舷梯のぼる眸ぬれたり 自虹

※昭和58年自虹さん没の際の誓子さんの弔句(染筆色紙)

▪️寒天に君が残せし飛行雲 誓子