沼田城址に行ってきました | ビートニク酒場

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2月29日に仕事で群馬県沼田市に行ったのですが、仕事が片付いた後に市中心部にある沼田城址に行ってきました。人気の高い真田氏の居城跡になります。


天正8(1580)年、武田勝頼の命により真田昌幸が沼田城を攻略して、さらに翌9年には沼田城の奪還に来攻した沼田氏を滅亡させました。


このあと、この地の領有は秀吉の裁定により、名胡桃城から信州側を真田、沼田城から上州側を後北条氏としました。後北条氏の対秀吉強硬派としては、利根川を挟んだ沼田城の対岸に真田の名胡桃城が配置されていることが我慢ならずに、とうとう天正18年(1590)に真田方の名胡桃城を奪取しました。昌幸は直ちにこの不法行為を豊臣秀吉に通報しました。


秀吉は激怒して、後北条氏に宣誓布告の朱印状を送付しました。後北条氏は豊臣秀吉の小田原城攻めにより滅亡しました。

 

秀吉は、真田氏に信濃二郡と利根・吾妻の旧領を安堵し、昌幸は沼田城を嫡子の信幸に与えて信濃国上田に移りました。秀吉の死後、豊臣方と徳川方が対立して1600年に関ヶ原の合戦が起きます。

 

この時、真田は父・昌幸、弟・信繁が豊臣方につき、対して信幸は徳川に付くことになりました。有名な「犬伏の別れ」ですね。



信幸の妻は、徳川四天王の1人、本田忠勝の娘・小松姫。


昌幸は関ヶ原の合戦に向かう際に、孫に一目会おうと沼田城を訪れますが、小松姫は受け入れませんでした。父とは言え、今は敵です。



この時、小松姫は沼田城にはいなかったと言う説もあり、ただこの話は後世の作り話の可能性があります。