ザンジバル、ストーンタウンの迷路から抜け出し、僕たちは旧港の浜辺に出た。


オマーン人に建てられたオールド・フォート​

 今は港は別の場所に移されているが、イギリス植民地時代の重要な港湾だった。海に向かって、大砲の列が残されている(写真)。

 

 

 旧港は公園として整備され、緑も深い。

​ その公園の向かい側に古い石造の要塞が建っている(写真)。オールド・フォート、またはアラブ砦と呼ばれる。1699年にオマーン人によって建てられた。今は、催事場や土産物店街となっている。​

 

 

 

 そこから海辺に出た。旧港である。今は、ダウ船の船着き場になっていて、公園で憩う人たちのスポットになっている。


東アフリカで初めて電気・水道完備の「ハウス・オブ・ワンダー」​

​ この旧港の向かいに、トタン板で囲まれ、修復中の「ハウス・オブ・ワンダー(The House of Wonder:驚きの家)」がある(写真)。1883年、島を統治するスルタンによって建てられたが、東アフリカで初めて電気照明や水道、さらにはエレベーターまで完備された建物であったため、そう呼ばれたのだ。今は修復中のため、見学できない。​

 

 

 

​ その向こうに、海に面した白亜の建物がスルタンの暮らした旧王宮で、今は博物館になっているらしい(写真)。​

 


ストーンタウン内に「からゆきさん」の跡​

 ところで僕たちは行かなかったが、ストーンタウンには、かつて明治の頃、主に九州から出稼ぎに来た「からゆきさん」が住み、働いた「ジャパニーズバー」跡がある。

 「からゆきさん」については、ノンフィクション作家山﨑朋子の名作『サンダカン八番娼館』で有名だ。天草などの九州の貧しい農家の女性たちが東南アジア各地に出稼ぎに出かけた海外売春婦の愛称だ。『サンダカン八番娼館』の舞台は、ボルネオ島サンダカンだったが、驚くべきことに、はるか東アフリカのザンジバルにも「からゆきさん」がいたのだ。


ザンジバルの他、遠くローデシアのような内陸地にも​

 最盛期の明治28年(1885年)には、28人の「からゆきさん」が、ザンジバルの「ジャパニーズバー」で働いていたという。彼女たちは、そこで船員や漁民たちを相手に稼ぎ、故郷の家に送金していた。

 今は、その跡には何も残っておらず、日本近代史の「闇」の部分だから碑も案内板も設置されてられていないようだ。旅行社だってツアー客を案内しない。

 訪れてみたかったが、行ったところで何もなく、第一、カスバのような迷路の街を歩くのだから1人で行って迷わず戻ってこれるかどうか、自信がない。

 翌日午後、自由時間にストーンタウン内に足を踏み入れたが、深く歩き回ることなく、それ以上の探索を諦めた(写真:ストーンタウン中央部に近い所にあるゴシック様式のローマカトリック教会、ジャパニーズバーはこの近くにあったはず)。

 

 

 ちなみに東アフリカの「からゆきさん」が最も多かったのはザンジバルだが、中にはモザンビーク、南アフリカ、さらにはローデシア(現ジンバブエ)のような内陸まで行っていた女性たちもいたという。貧しい時代の日本の逞しい女性たちである。

 『サンダカン八番娼館』のおサキさんは日本に戻れたが、遠いアフリカの、ましてやローデシアまで流れていった女性が生まれ故郷に帰れたとは思えない。

(この項、続く)


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