ホテルで、痛めた右親指と手の甲の擦過傷の応急処置の後、一休みして北海道知事公館と道立三岸好太郎美術館に行く。


都心の中に緑のスポットの北海道知事公館​

 長年札幌を訪問し、またほんの一時期住んでいたこともあったのに、知事公館は初めての訪問だ。そもそも警備上の理由から知事公館など立ち入りできないものと思っていた。

​ 知事公館は、札幌のへそに当たるテレビ塔から西に約1.5キロ。都心のど真ん中なので、周囲は高級マンションに囲まれた中に、東西南北約200メートルの広大な緑地を占めている(地図)。1丁西には道立近代美術館がひかえ、この広大な敷地の北東端には、道立三岸好太郎美術館が建つ。​

 

 

 休日を除いて、外の庭園も公館内部も公開されている。しかも入場料は無い。全体は都市の中の公園というおもむきだ。


今、知事は公館に住まない​

 まず入り口で、靴を脱いで中に入る。案内人の中年女性がいて、今、知事は住んでいないのかと尋ねると、はたしてそうで、住まいは別にあり、公館は賓客が来た時の応接にしか使わないという説明だった。何せ築90年近い。住むには、難しいだろう。

 現知事の鈴木直道氏は、都庁に入庁、そこで働いていた時、夕張市が財政再建団体に転落したので、何の地縁血縁も無いのに、自ら手を挙げて夕張市に出向する。そこで2年余勤務し、夕張市長選に無党派で出馬し当選。財政再建団体という厳しい環境の中、手腕を発揮し、それを自公両党に見出され、2019年、北海道知事選に出馬し、当選。全国最年少知事と言われた(38歳)。


緑の芝生を前に深い緑に包まれた美しい建物​

​ 1階の応接室は、賓客の座る上座から外の芝生と森が見える(写真)。​

 

 

​ 玄関の左に控え室と食堂がある(写真)。奥にキッチンがあるが、今は会食時はホテルからケータリングをするという。​

 

 

 外も素晴らしいからぜひ、と誘われて、外に出た。

​ きれいに刈り整えられた深い緑の芝生を手前にして知事公館は、左と右、奥にこれまて深い緑に囲まれている。木組みのような公館建物は、その中に見事に映えていた(写真)。さすが登録有形文化財に指定されているだけある。この拝観が無料とは、信じられない。​

 

 


幕末と開拓使時代の英士、村橋久成の胸像『残響』​

​​ 敷地内のあちこちに彫刻が据えられ、公館のローンに入る手前に開拓使として麦酒醸造所を創業した村橋久成の胸像『残響』(下の写真の上)、ローンの真ん中に安田侃の『意心帰』(下の写真の下)などがアクセントを添えている。​​

 

 

 

 村橋久成は、旧薩摩藩士族。幕末に藩が派遣した第一次薩摩藩英国留学生に森有礼らと共に加わり、戊辰戦争に従軍、旧幕軍との最後の決戦となった箱館戦争では、土方歳三率いる旧幕府軍と戦っている。箱館の制圧後、部下とともに箱館病院を訪ね、病院長の高松凌雲を通じて、五稜郭の榎本武揚と降伏交渉を行っている。

 その後、新政府に出府し、北海道の開拓に従事、また胸像の説明にあったように、札幌に麦酒醸造所を創った。順調に出世したが、明治14(1881)年に突然、開拓使を辞め、後に家族も捨てて行脚放浪の旅に出た。


シャツ1枚で行旅死亡​

 彼がなぜ栄光の道を捨てたのかは分からない。そして最期は悲惨を極めた。

 長年消息不明となり、出奔11年後の明治25(1892)年9月、神戸郊外の路上で、行き倒れ死去した。所持品も持たず、木綿シャツ1枚とほとんど裸の状態で倒れていたという。

 最初は身元も分からなかったが、それでも半月後に村橋と判明、開拓使の上司だった黒田清隆が遺体を東京に運んで葬儀を行っている。葬儀には、幕末と開拓使時代の多くの同僚が参列した。

 北海道知事公館には十分に満足して、僕は次の道立三岸好太郎美術館に向かった。

(この項、続く)


昨年の今日の日記:「函館の旅(25):荒れ果てた活火山の登山路に吹きすさぶ風とまとわりつく火山ガスの中、恵山登山」