温暖化を通り越し、沸騰する地球気候の今、とうてい想像できないことが、数百年前まで300年間ほど続いていた。

 小氷期、である。

 小氷期については過去に何度か取り上げたことがある。ヨーロッパでは食糧不足など、大きな影響があった。
 

画家の描いた小氷期の冬景色​

​ 研究者によって多少の異同はあるが、16世紀~19世紀まで、1550年頃~1850年頃までの北半球を襲った、長く続いた厳しい寒冷気候である()。​

 

 中世の温暖期の終わった直後だけに、この寒冷化はよけい応えただろう(中世の温暖期についは、23年11月16日付日記:「もう1つの先史時代航海:中世温暖期の北米北東岸へのヴァイキングの植民と小氷期のグリーンランドでの絶滅」を参照)。

​​​ 小氷期の冬、テムズ川も凍り、16世紀の有名なネーデルラント(現在のオランダとベルギーの一部)の画家が好んで凍った川や豪雪の村の人たちを題材に取り上げた。すなわちピーテル・ブリューゲルの「雪中の狩人」(1565年=下の写真の上)、ルーカス・ファン・ファルケンボルフの「アントワープ近郊の凍り付いたスヘルデ川(1593年=下の写真の中央)」、アールト・ファン・デル・ネールの「スケートをする人たちの冬景色(1642年=下の写真の下)」など、枚挙にいとまがない。​​​

 

 

 

 

馬に乗った軍隊が艦隊を捕獲​

 歴史にも大きな影響を与えた。1658年にスウェーデン国王カール10世グスタフの軍隊は、凍り付いた海峡を渡ってデンマークのフュン島に侵攻した。1795年にフランス軍が海氷にはまって動けなくなったオランダ艦隊を捕獲したこともその一例だ。馬に乗った軍隊が艦隊を捕らえたのは、後にも先にもこれきりだというが、確かに小氷期の寒冷化がなければ起こりえなかったことだろう。

 農作物の不作も続いた。ヨーロッパでは魔女裁判やユダヤ人への迫害が急増した。さらに中国でも、食料不足によって農民の反乱が増えたことが明王朝崩壊の一因になったという見方もある。グリーンランドに植民していたヴァイキング植民地は、寒冷化の海の凍結で本国のノルウェーとの交易もできなくなり、また農地も耕作できず、崩壊した。


日本の江戸時代の4大飢饉も​

 日本でも、「江戸時代の4大飢饉(寛永、享保、天明、天保)」は、小氷期に起こっている。

​ 4つのうちの最大の大飢饉とされる「天明の大飢饉」(1782年=天明2年)~1788年=天明8年)では、折からの浅間山の爆発の火山灰による寒冷化効果も相まって、悲惨を極めた。被害は東北北部、特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者は10数万人に達したとも伝えられており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった(写真;20年2月16日付日記:「早すぎた尊皇思想家、高山彦九郎と天明の大飢饉(前編):東北旅行で見た、聞いた惨状をルポ」を参照)。​

 


極地の氷が北大西洋に流出したからか​

 さて、それではこのような小氷期は、なぜ起こったのか。この時期、太陽活動が低下した証拠があり、また日本の浅間山噴火のような火山噴火が相次いだこともあった。

 変わった見方としては、ヨーロッパ人による北米先住民の大量虐殺が原因という説もある。大量虐殺によって北米先住民の人口が減り、耕作されなくなったトウモロコシ畑に代わって森林が拡大し、大気中から約70億トンもの炭素を吸収したという。

 また21年12月15日付けの米科学誌『Science Advances』に発表された論文では、1300年代末頃に非常に暖かい海水が熱帯から北に移動したことで、北極圏の氷が北大西洋に急激に流出したことが寒冷化の引き金になったのではないかと推測している。

 これと似た現象は、氷河時代の終わりを画したヤンガー・ドリアス期の始まり(1万2900年前頃)にも起こり、それがヤンガー・ドリアスの急激な寒冷化の原因となったとされている。


今夏も猛暑予報、小氷期を待望する​

 気象庁による長期予報によると、今夏も昨年と似た猛暑になるという。もう夏の猛暑の「平年化」である。日本に限られず、北半球も同じ夏の猛暑に襲われるだろう。

 小氷期のような寒冷な気候変化は、こうした温暖化を多少は和らげてくれるかもしれない、とむしろ僕は期待している。何しろ小氷期の気温低下幅はたった0.5℃程度だったというのだ。それでも、1度冷え始めると、累積効果で大きな寒冷化をもたらすのだ。


昨年の今日の日記:「函館の旅(21):2日目最後に入った旧摩周丸=青函連絡船記念館だが」