野生動物は捕食者や対抗者との争い、転落事故などで傷を負うことはよくある。傷が重篤であれば死ぬが、軽傷ならせいぜい傷跡をなめて、自然治癒に任せる。しかしその傷跡は、ネイチャー番組などでよく見る例では時にはいたいたしい。


​​アカルクニン​​の葉を使って​

 2022年の夏、かつて誰も観たことのないオランウータンの行動が観察された。「ラクス」という愛称で親しまれているオスのスマトラオランウータン(Pongo abelii)が、抗菌、抗炎症、抗真菌、抗酸化作用のある「薬草」を使って、頬に出来た大きな擦り傷を丁寧に手当てしていたのだ。その様子を記録した論文が、2024年5月2日付で科学誌「Scientific Reports」に発表された。

​ 論文は、ドイツ、マックス・プランク動物行動研究所の霊長類学者のイザベル・ラウマー博士(写真)らによって発表された。​

 

 

​ 大きな傷に葉を貼ると、わずか数日で傷が治り始め、さらに2日後には傷口が完全に閉じていた(写真=22年6月23日に撮影されたラクス。頬に大きな傷がある。この2日後に、ラクスは噛んだアカルクニン Fibraurea tinctoria)の葉を傷の上に貼り付けた)。ラウマー博士によると、薬効のある植物を使って傷を治療する野生動物が観察されたのは、これが初めて、だという。​

 

 

​ アカルクニンの葉で手当てをしてから2カ月後、ラクスの頬の傷はほぼ治癒した(写真=8月25日に撮影)。​

 


野生のスマトラオランウータンはわずか1.4万頭弱​

 ラクスの行動は、インドネシア、スマトラ島のグヌンルセル国立公園内にあるスアックバリンビン研究ステーションを取り巻く熱帯雨林で観察された。研究センターは1994年から、周囲の保護林に生息したり、頻繁に姿を見せるオランウータンを観察してきた。動物たちに干渉することなく、あくまで見守る形で、その動きや行動を注意深く追跡、監視、記録している。

 研究センターの周辺の熱帯雨林は、スマトラオランウータンが地球上で最も密集している地域だ。オランウータンの生息地は、森林伐採によって年々縮小している。そのため、本来単独行動を好むオランウータンたちが、お互いに近い場所で暮らさなければならなくなっている。

 国際自然保護連合の推定によると、スマトラオランウータンは現在約1万3800頭しかおらず、危機のランクを「近絶滅(Critically Endangered)」としている。


わざわざ​​アカルクニン​​の葉を探して​

 ラクスは、2009年から研究センターの中やその周辺で暮らしている。2022年6月のある朝、研究者たちは、ラクスの右目の下の頬に大きく擦りむいた傷があることに気づいた。

 その前に、ラクスは監視エリアの外に出て行っていたため、どのようにして負傷したのかは分からなかった。おそらく、木から落ちて枝にぶつかったのか、他のオランウータンと争った時に負った傷だろうと思われる。

 いずれにしても、傷はその後数日間膿み続け、ラウマー博士の目にはかなり悪いように見えた。

 3日目に、研究者たちはラクスがアカルクニン(写真)という蔓植物を探し求め、それを食べている様子を観察した。アカルクニンは、インドネシアでは伝統的に傷の手当てや赤痢、糖尿病、マラリアの治療に使われている薬草だ。

 


歯を噛んで汁を傷口に塗る​

 わざわざアカルクニンが生えている場所まで行って食べるという行動自体が極めて珍しいと、ラウマー博士は指摘する。「私たちのデータを見ると、ここに生息するオランウータンが食べるもののうち、アカルクニンが占める割合はわずか0.3%です」。

 ラクスの傷が感染症を起こしたり、発熱していたりしたら、理論的にはアカルクニンを食べることで症状は改善しただろう。ラクスがそうと理解してこれを食べていたのだとしたら驚くべきことだと、研究者は考えた。とはいえ、その時点ではまだ単なる憶測にすぎなかった。

 しかし、次にラクスが取った行動は意図的としか思えないものだった。ラクスは、葉をちぎって口に入れると、飲み込むことなくそれを噛み、抽出した液体を直接自分の傷口に塗っていたのだ。それは、何度も繰り返された。

 このようにして7分間傷の手当てを続け、その後さらに約30分にわたってアカルクニンを食べ続けた。


オランウータンの高い知能から「驚くことではない」​

 アカルクニンを噛んだ液は傷口だけに塗っていて、体のほかの部分には付けていなかった。そしてさらに次には、噛んだ後の葉を「湿布のように」傷口に貼り付けたという。

 翌日も、ラクスはまたアカルクニンを食べに戻ってきた。3日後、傷口はふさがり、順調に回復しているように見え、1カ月ほどで傷はほとんど目立たなくなった。

 アメリカ、ケント州立大学の人類学部長で生物人類学者のメアリー・アン・ラガンティ博士は、ラクスの行動について「注目すべき発見」としながらも、オランウータンの高い知能を考えれば、それほど驚くことでもない、と話す。


偶然に知ったか母親から学んだのか​

 さて、それではラクスは、どのようにしてアカルクニンが持つ治療効果を知ったのだろうか。

 ラウマー博士は、アカルクニンの葉を食べ、たまたまそれを触った手で傷に触れたら、痛みが和らいだことに気づき、それ以来、何度も傷に塗るようになったのかもしれない、と偶然の行為がきっかけになったと推察する。

 また、仔どもの頃に母親か別のオランウータンの行動を観て学んだ可能性もある。これを、「覗き込み行動」と呼ぶ。霊長類、特に類人猿は、仔ども時代が長いという特徴があり、その間に多くを学べる。その典型が人類で、ラクスもそうだったのではないかという見方がある。

 オランウータンの母親は、仔が生まれてから7~8年間集中的に育児を行うため、ラクスもこれを母親から学んだ可能性がある。ただ、成体オランウータンにも覗き込み行動が見られた記録があるから、ラクスもオトナになってから学んだということも考えられる。


霊長類の過去の観察記録​

 もっとも野生の霊長類が薬効のある植物を噛んだり、飲み込んだり、使用しているのが観察されたのは、これが初めてではない。

 1960年代初期、有名な霊長類学者で人類学者のジェーン・グドール博士が初めて、タンザニアのチンパンジーの糞の中から、薬効のある植物の葉が見つかったことを報告している。それ以来、他の群れでも、傷口をきれいにしたり、病気を癒すために、植物や昆虫を食べたり使用したりする行動が観察されてきた。

 しかし、アメリカ、デューク大学の著名な進化人類学者のアン・ピュージー名誉教授は、いずれの場合も「どんな葉を使ったのかまでは特定されていまない」と指摘する。


観察記録はまだ1例だけ、今後も持続するか​

 2022年2月7日付の科学誌「Current Biology」に発表された論文では、アフリカのガボン共和国でチンパンジーが昆虫を傷口にこすりつけるという行動が報告されているが、この時もどんな昆虫が使われたのか、どのような効能があったのかなどは特定されていない。

 ラクスの行動が重要なのは、使用した葉に薬効成分があることがよく知られているためだ。ラクスも、経験的にこれを学んでいた可能性が高い。またラクスはゆっくりと時間をかけて、丁寧に傷の手当てをし、治りも早かったという。

 ただ観察は、まだ1度だけだ。これがラクスと、その仲間たちに継続的に行われていれば、確度は高まる。

 自分で自分を治療するという行為は、霊長類の進化の過程に深く根差しているのかもしれない。それがやがて他者を治すという医療行為に発展したが、これはずっと後のことになる。

 

​注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。​

 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

 

注 明日から3日ほど、都合により休載します。よって「昨年の今日の日記」を本日を含め4日分掲載します。

 

​・昨年の今日の日記:「唐古・鍵遺跡で弥生時代のニワトリ、雛を孵し、累代飼育したことを推定させる紀元前3、4世紀の雛の骨」

​・昨年の明日=23年5月29日付日記:「函館の旅(18):戦争一歩手前の緊迫した日露関係を平和裏に着地させた高田屋嘉兵衛の功績」

​・昨年の明後日=23年5月30日付日記:「永田町と長野県の2人のどら息子が名士の父親の足を引っ張る」

​・昨年の明明後日=23年5月31日付日記:「函館の旅(19):新撰組最後の地、弁天岬台場跡を観る:あの島田魁もここで降伏」​​