昨年10月のイスラム原理主義テロリスト「ハマス」によるイスラエル奇襲攻撃に対するイスラエルの反撃で始まったガザ戦争は、終わりが見えない。


ガザ戦争、3万人を超える犠牲者​

 この間、イスラエル軍による空爆と地上戦闘で、ハマスの戦闘員約1万人(イスラエルによる)含む3万2000人以上の死者が出ていて、なお日々、増え続けている。

 ガザ市民の85%は、家を失って域内難民となった。

 なぜ、こんな悲惨な戦争になったのか。

 そもそもハマスは、何の成算があって、無謀なイスラエル奇襲攻撃を行ったのか。この奇襲で、イスラエルの市民約1200人が殺害され、253人が人質に取られた。なお半数前後が人質にとられている。


イスラエル市民に重くのしかかる日常的な底無しの恐怖感​

 平和な音楽祭や市民の家庭などを襲い、殺害したり人質に取ったハマスは、ニューヨークの9.11同時多発テロを実行したアルカイダと並ぶ極悪テロリストとして非難されねばならない。

 今のイスラエル、ネタニヤフ政権が欧米から非難され、イスラエル国内の一部からも批判されていて、ガザ作戦を止めないのは、いつ自分たちが理不尽なテロ攻撃で命を失うかというイスラエル市民の底無しの恐怖があるからだ。イスラエル市民のこの恐怖を取り去らない限り、ガザ作戦を止めろと言っても、何の意味も無い。

 その恐怖は、昨日、一昨日に味わったものではない。イスラエル市民は、生まれた時から、その恐怖のもとで生きてきたのだ。


帝政ロシア期のポグロム、そしてホロコースト​

 よく言われるが、イスラエルの建国の最大の動因になったのが、ナチ・ドイツによるアウシュビッツなどでの600万人ものユダヤ人虐殺(ホロコースト)だ。生き延びたユダヤ人たちは、当時、イギリスが委任統治していたパレスチナに、イギリスによる「見つけ次第ヨーロッパに送還」というリスクを顧みず、すし詰めの船でパレスチナにたどり着いた。

​​ 昨日の日記「戦時下イスラエル最大の経済・文化都市テルアビブの歴史はたった1世紀、ユダヤ人入植者は『遺丘』に創建」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202404050000/でも書いたが、帝政ロシアによるポグロムという大量虐殺を含むユダヤ人抑圧は19世紀末から続いていた。欧米に散在していたユダヤ人たちの資金援助も受け、彼らはユダヤ系オーストリア人テオドール・ヘルツル(下の写真の上=晩年のヘルツル;下の写真の下=背景はダビデの星をあしらったイスラエル国旗)の主導するシオニズム運動に希望と生きる道を見出し、パレスチナに移住した。​​

 

 

 


イスラエル建国直後のパレスチナ戦争​

​ 1948年のイスラエル建国までに、パレスチナには数十万人のユダヤ人が植民していた。同年の国連総会で、パレスチナを分割して西側にイスラエルの建国が承認されると、彼らはやっと自らの国を得たのだ(写真=建国を宣言する初代首相のベングリオン、背景に掲げられた写真はヘルツルの肖像)。​

 

 

​ しかしその国も安住の地ではなかった。イスラエル建国直後に、反発するパレスチナ人と周辺アラブ諸国は一斉に新生イスラエルに攻め込んだ。パレスチナ戦争(第1次中東戦争)である(​下の写真の上​=アラブ人戦闘員;下の写真の下=イスラエル国軍)。​

 

 

 

​ 優勢なアラブ勢に一時は新生イスラエル国のかなりを占領されながら、ユダヤ人たちは欧米ユダヤ人たちからの資金と武器援助を受けて巻き返し、逆に国連によるパレスチナ分割時の領土よりも国土を広げて、停戦となった()。​

 


中東のユダヤ人コミュニティーが一掃された​

 この戦争は、敗北したアラブ側の領土にいたユダヤ人たちにも大きな痛手となった。復讐心にかられたアラブ人からアラブ側のユダヤ人社会に熾烈な攻撃が加えられ、約80万人が父祖の地を追われてイスラエルに逃げた。今日のイスラエルに住むユダヤ人の半数は、こうしてアラブ側から追われた難民という。

​ このアラブ側からの排撃は強烈だったので、アラブ側にあったユダヤ人コミュニティーはほぼ一掃された。今やアラブ諸国に残るユダヤ人はモロッコで約2000人(写真=フェズにあるユダヤ人街、2014年撮影)、チュニジアで約1000人程度に過ぎない。​

 

 

 つまりイスラエル国民は、帝政ロシア下の抑圧、ナチ・ドイツによるホロコーストの後でも、パレスチナ戦争でも迫害の結果、多くの苦難を嘗めた。


ミュンヘン五輪事件、エンテベ空港事件​

​ イスラエルは、パレスチナ戦争(第1次中東戦争)以後も、1982年のレバノン侵攻戦争(第5次中東戦争)も含め、5度も大きな戦争を強いられており、さらに北のレバノン、南のガザから、たびたびヒズボラとハマスによるロケット攻撃などを受けてきた(写真=新年のイスラエルを襲うハマスのロケット弾)。​

 

 

 イスラエル市民は、海外に行っても安全ではない。

​ 1972年のミュンヘン五輪では、「黒い九月」を名乗るテロリスト集団からミュンヘンのイスラエル選手村が襲われ、五輪代表選手11人が殺されているし、1976年6月には多数のイスラエル国民の乗ったエール・フランス機がテロリストに乗っ取られ、アフリカ、ウガンダのエンテベ空港に連れ去られ、イスラエル軍特殊部隊で救出されたが人質となった3人のイスラエル市民が殺されている(イスラエル軍側は2人が戦死;写真=イスラエル軍特殊部隊に救出され、ベングリオン空港に戻ったイスラエル人乗客たち)。​

 

 

 フランスやドイツでは、テロリストに襲われてたびたびユダヤ人が殺害されている。イスラエル市民という名札を付けていたら、イスラエルの旅行者は決して安全にホテルで眠ることさえできないに違いない。


ガザ戦争前にも北と南から何度もテロ​

 しかも今も、レバノンのシーア派イスラム原理主義テロリスト「ヒズボラ」から散発的にロケット弾攻撃を受け、イランからはミサイルで脅されている。さらに国内でも、頻繁にテロ事件が起こり、毎年、何人か、何十人かが殺害されている。

 僕たち日本人にはとうていうかがい知れない恐怖を、イスラエル国民は日常的に感じているのだ。

 それを思うと、僕は安易にイスラエルを非難できない。

(この項、続く)


昨年の今日の日記:「失敗に終わるロシア侵略軍の東部ドンバス地方への大攻勢、注目される総指揮官のゲラシーモフの地位」