​ 世界の耳目を集める中東のイスラエル。地中海岸に面したイスラエルの経済・文化都市テルアビブも、ハマスやレバノンを事実上支配するイスラム原理主義テロリスト「ヒズボラ」によって何度もテロ攻撃を受けている(写真=昨年10月7日、ガザからのハマスのロケット弾テロ攻撃を受けたテルアビブで抱き合う人々)。​

 


1度だけ訪れたテルアビブ​

 このテルアビブに僕は1度だけ、短期に訪れたことがある。テルアビブは、AI関連産業の盛んなイスラエルでとりわけスタートアップの集積している都市で、世界からも注目されている。

​ 訪ねたテルアビブは、砂漠の中なのに築かれた都市なのに、緑あふれる近代的都市だった(写真)。ここが、ユダヤ人入植者によって創建されて1世紀くらいしかたっていない都市とは、その時、想像もできなかった。​

 


先史時代の街の跡の「テル」​

 前世紀初めまで現テルアビブのあった所は、不毛の砂漠だった。

 1909年、帝政ロシア(ポーランドを含む)のユダヤ人抑圧に逃れ、「約束の地」に移民したユダヤ人植民者たち80数人が創建した。

 「テル」とはヘブライ語で先史時代の「遺丘」の意で、アビブ(アヴィヴ)は、「春」という意味だ。だからテルアビブとは、「春の丘」ということになる。厳しく抑圧されていた帝政ロシアからの植民者は、希望を込めてこの遺丘に春の訪れを希望し、命名したのだろう。

 テルは、中東各地の古代遺跡に見られる。先史時代、日干しレンガで築かれた建物の集落が放棄され、それが崩れて出来た丘状の高まりだ。何度も何度も再建され、日干しレンガが積もっていくので、丘の高まりはけっこうなものになる。テルに何度も先史人が住んだことは、近くに泉のあったことを示す。


初期ユダヤ人入植者が遺丘に街を創ったのは正しかった​

​ 例えば現在のヨルダン川西岸のイェリコ近郊の遺丘「テル・エッ・スルタン」(写真)の近くに泉が湧く場所があり、街が長年この場所に造られ、その廃墟が丘となって積み上がったことがうかがえる。​

 

 

 初期ユダヤ人植民者たちが水の得やすい遺丘を見つけて集落を建設したは正しかった。想像するに、砂地のあちこちに新石器時代土器片が散らばっていたのだろう。

 それが、今日では44万人(郊外の都市圏まで含めれば約270万人)の大都市に発展したのだ。


フォークダンス「マイム・マイム」は水を見つけた喜びのダンス​

​ 僕の中学時代、大っぴらに女子と手をつなげるフォークダンス「マイム・マイム」が楽しみだった(写真=子どもたちがキャンプファイヤーを囲んで環になって踊るマイム・マイム)。これは、イスラエルの初期植民者が砂漠で水を見つけた喜びを表すダンスだと知ったのは、つい最近のことだった。「マイム」はヘブライ語で「水」の意味なのだ。​

 

 

 雨と川に恵まれた日本では、水のありがたみはなかなか実感できない。

 砂漠や乾燥地に人が定住したのは、泉の湧くオアシスだけだった。テルは、その場所を示す遺跡なのだ。


昨年の今日の日記:「世界最初に乗馬を始めた東欧草原地帯のヤムナ人たち:骨に残された遅くとも5000年前には乗馬していた証拠」